駿河侵攻(二)

 今川との軍事衝突が現実味を帯びていく中、永禄十一年(一五六八)七月、勝頼は甲府からの使者を高遠城に迎えていた。

 躑躅ヶ崎館への出仕を求める使者に対し、勝頼は

「月例の参府までにはまだ旬日ほどあるが・・・・・・」

 ととぼけて見せたが、信玄から呼び出される心当たりはあった。

 きっと、武田の後継者として府第に詰めることを求められるのであろう。遂にその日が来たというわけである。

 兄義信の死からおよそ九箇月。頃合ではあった。

 いずれ遠からずその日が来るという覚悟を固めているつもりだった。つもりだったが、いざその日が来たことを悟ると、勝頼は内心の高ぶり、緊張を隠すので精一杯になってしまった。使者を前に惚けて見せたのは、そういった発言をすることで余裕のあるふりをするためであった。

 勝頼は上気しているであろう顔を隠すように、これより参府の準備をする旨使者に告げ、奥御殿へと向かった。そこには勝と武王丸が暮らす奥向きの場所であった。勝頼が奥へ入ると、今日は体調が良いのか、勝は武王丸の相手をしていた。間もなく二歳(このころは満八ヶ月)になろうという武王丸は元気に這い回り愛らしい所作を惜しげもなく見せて、勝や侍女達がそれを口々に囃しているところであった。

 勝は勝頼の姿を見るや、

「御覧下さいまし。このごろの武王丸といったら這い這いも上手、お名前を呼んだら振り向いてくれるのですよ」

 と、嬉しそうに告げた。

「そうか」

 勝頼は思わず相好を崩した。

 思えば勝頼にとってこの高遠城は、元服して初めて城主として拠った城であった。勝頼が城主として着任したことにより、叶うはずもない高遠諏方家の惣領家復帰を夢見てなにくれとなく勝頼に尽くしてくれた人間に囲まれながら、この城に日々を過ごした勝頼である。

 勝頼は、自身が諏方姓を名乗ったまま信玄後継として起つことが出来るなどとはもとより考えてはいなかった。当然諏方姓を捨て、武田姓に復することが求められるはずであった。

 嫁してきて日が浅い勝などが勝頼の武田復姓の意味するところを理解するためにはいますこしの時間が必要と思われた。勝がそのこについて反対するとは思われなかったが、高遠の人々が肩を落としながら、それでも笑顔で勝頼を見送る情景を思い浮かべると、勝頼は柔らかく愛らしい我が子武王丸を眼前に置きながらなお、気分は浮かなかった。

 勝頼は勝や侍女に対して強いて柔和な表情を作りながら

「父上が参府を求めておいでだ。明日までには帰るであろう」

 と短く告げた。

「いまから甲府へ? 月例の参府まではまだ日もございましょうに」

 という勝の言葉を振り切るように、勝頼は馬上の人となった。


「よくぞ参った。大方おおかた、察しのとおりである」

 信玄は本主殿に参上した勝頼に対して短くもこう告げた。

「過分なる御差配。謹んで承ります」

 勝頼の返事に、信玄は満足そうに頷いたが、勝頼の内心は穏やかではなかった。

 勝頼はこの際父に問い質しておきたいことがあった。言うまでもなく勝頼が相続した高遠諏方家の今後のことである。

「翌月には妻子と共に府第西曲輪へと入るがよい。武王丸と共に暮らす日が余も楽しみだ。跡部長坂あたりがそなたの武田復姓の手続きを遅滞なくおこなうであろう。本日は大儀であった」

 親子と遣り取りにしてはあまりに事務的で素っ気ないものであった。

 勝頼は告げるべき事だけ告げて奥へと引っ込もうとする信玄を呼び止めて、詰問する自分の姿を想像した。

「翌月には府第へ詰めよ? またぞろ急な仰せ。分かりました。そのとおりに致しましょう。ではひとつ問いますが、それがしが抜けたあとの高遠諏方家は如何なさるおつもりですか」

 想像の中での勝頼は信玄に対して一歩も物怖じすることがない。

 信玄が

「高遠諏方家など所詮武田に弓引いた謀叛人の家柄である。叶うはずもない惣領家復帰を勝手にそなたに託して夢見てきた愚か者どもだ。これを機にそのことをとっくり教えてやろう」

 と、今から十六年前の天文二十一年(一五五二)正月に発覚した高遠頼継謀叛に言及しながら放言した。

 勝頼の語気はいっそう強いものとなった。

「これは、謀叛人の家柄などと。では父上は何ゆえにその謀叛人の家柄に我が子を入嗣させたのです。高遠諏方家を謀叛人の家柄などと指弾するからには、それこそ謀叛を企てた折に、力によって族滅に追いやっておけば良かったのではないですか。そうしておけば今ごろこのようなややこしいことにはならなかったのです。そのときの武田に力がなく、潰すということが出来なかったから、てなづけるためにそれがしを高遠に入嗣させたのではないのですか。その事も忘れ武田が大を成した今になって高遠の人々からそれがしを取り上げるのですか。そのやりようはあまりに虫が良過ぎは致しませぬか。事のついでに申し上げましょう。叶うはずもない惣領家復帰をと父上は仰せでしたな。高遠衆はその夢を勝手にそれがしに託したと。それでは問いますが、そのように仕向けたのは一体どこの誰ですか。この際はっきりと申し上げましょう。高遠衆が勝手に夢を見たのではございませぬ。父上がそのように仕向けたのです。今よりずっと小さくて弱かった武田が、高遠諏方家を潰すことが出来なかったから、そう仕向けて今日まで高遠衆を騙して利用してきたのでしょう。父上の傍若無人のやりようにはもはや我慢なりませぬ。諏方、高遠を併呑したうえは、生涯を賭け責任を持ってこの両家の関係を解きほぐしなされ。それがしは死ぬまで諏方勝頼を名乗り続けます。武田家のことなどそれがしは知りませぬ」

 背中を見せて奥へと去っていく信玄の背中が、勝頼には一瞬、勝頼の難詰に堪えかねてその場から逃げていく後ろ姿に見えた。だが現実には勝頼はただ俯きながら唇を震わせるだけで、ひと言たりともその口から発せられることはなかった。勝頼は父信玄の命令どおり、翌月には高遠城を出て府第に入り、武田姓に復さねばならないことを悟ったのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る