直訴(三)

 二月九日、武田の検使は内田山に入った。検使は甘利同心の田邊佐渡、その補佐に深志から土屋加賀、土橋源之丞、関口喜兵衛を得て検分はおこなわれた。三右衛門尉は山の起伏を縫って検使を沢に案内し、ひときわ深い沢を指差しながら

「ここが熊沢でございます。ここより小池側の草木は代々残らず我等小池衆が刈って参りました。しかし内田郷の側に乗り入れて草木を刈るようなことはございません」

 と説明すると、田邊佐渡が今度は同道の内田衆に訊ねた。

「小池衆はこのように申しておるがどうか」

 今回検使の補佐に付けられた土橋源之丞は、二年前にも発生した両郷の境目争論に際しても現地検分に入ったことがあった。内田衆はそのこと覚えていたので、現地の情勢に疎い田邊佐渡を口先で言いくるめることもできず、

「そのとおりでございます」

 と返答するよりほかなかった。

 検分を終えて田邊佐渡が甲府へ帰る際、田邊は深志に立ち寄って補佐の三名に訊ねた。

「検分の結果をどう見るか」

 すると三名は異口同音に

「小池衆の言い分は筋が通っており、内田衆が入会を禁じた措置は根拠に欠けると存じます」

 とこたえた。

 田邊佐渡はしかし、

「そのように考えられるか」

 と口にしただけで自分の存念は言わなかった。そのことについて口を開けば自分自身の責任において小池衆の勝利を宣告しなければならなくなるからであった。

 一方、そのような検使の苦労を知らぬ三右衛門尉は、検分の結果が小池郷にとって有利だったことを敏感に嗅ぎ取り、

「公事の勝利は疑いがないぞ」

 と喜色満面であった。

 村人の中には

「それでは間もなく点札は撤去されるでしょう。早速山に乗り入れましょう」

 と勧める者もあったが、三右衛門尉は

「ゆめゆめ油断するな」

 という父の言葉を思い出し

「正式にお達しを得るまでは我慢だ」

 と村人を押し止めた。

 しかし待てど暮らせど甲府から返答がない。公事の勝利を確信した現地検分からひと月が経とうとしていた。村人達が三右衛門尉を見る目は冷ややかであった。困り果てた三右衛門尉は、たった一人で甲府に行くことを決意した。もはや村人達から滞在費を募ることも出来ず、家族の者にだけ行き先を告げ、結果を聞くことが出来なければとんぼ返りに帰ってくるつもりで三右衛門尉は村を出発した。

 三右衛門尉は甲府への道をただ黙って歩き詰めに歩いた。寒さはいっときと較べると幾分緩んではいたが、露天に一夜を過ごせば凍え死ぬことは疑いがないほどの寒さではある。宿代は三右衛門尉の懐を痛打したが、母に握ってもらった握り飯を頬張りながら三右衛門尉は先を急いだ。

 二日目の早朝、府第の門が開く辰の刻の始まりに、三右衛門尉はその門前にあった。既に府第を訪れること四度に及んでいた。

 三右衛門尉は門番に

「先般村に御検使賜った者です。裁許をいただきにまかり越しました」

 と用向き伝えると、大手脇の木口から内に通され、そこで検使として現地を検分した田邊佐渡より

「実はな、双方の言い分が拮抗しており結論が出せんのだ」

 と、ばつの悪そうな表情を見せられながら告げられた。

 この回答は三右衛門尉を失望させた。検分の結果が良好であると手応えを感じていただけに余計失望の度は大きかった。二束三文で甲府に出張ってきた三右衛門尉はしかし、もう小池郷に帰らなければならなかった。その足どりは自然と重いものとなった。三右衛門尉はまっすぐに帰るつもりだったが、そのような気力はもうなかった。この苦衷を誰かに聞いて欲しかった。三右衛門尉にとってその相手は、公事のため初めて甲府へ赴く道中、目安を無償で代筆してくれた加賀美の大坊以外にいなかった。三右衛門尉の足は自然と加賀美山法善寺に向いていた。

 大坊は訪れた三右衛門尉を寺に招き入れた。

「随分消沈しておるの」

 大坊が三右衛門尉に向けて言った言葉は、三右衛門尉の口からその苦しみを語らせる呼び水になった。

 三右衛門尉は既に決破に及ぶこと三度、現地検分まで経たにもかかわらずいつまで経っても決裁を下されず、凍死する村人が続出して村内で信頼を失いつつあること、そのような状況であるから甲府への旅費を村人から集めることも出来ず、自費でここまでやってきたこと、にも関わらず奉行はやはり決裁を下してはくれなかったことを、悔し涙を流しながら語った。その言葉は、これまで辛うじて抑えていた三右衛門尉の苦衷の堰を切ったようで、とめどなかった。大坊は三右衛門尉の言葉を一度として遮らず、ただ黙して聞くだけであった。

 そして三右衛門尉がひとしきり語った後、静かに口を開いた。

「そなた等の苦衷を知らぬ御屋形様ではないぞ」

 三右衛門尉は慰めか何かと思っていたが、大坊の続けた言葉に思わず身を乗り出した。

「先般府第に赴き、世間話に紛れて御屋形様とこのたびの公事の話をした」

 甲斐国内の諸寺が武田家とどのような関係を取り結んでいるか、三右衛門尉は知らなかった。知らないままに、三右衛門尉は目安の添削を加賀美の大坊に依頼し、大坊はそれを無償で代筆してくれたのである。しかも府第を訪ねて勝頼と親しく話が出来る人物であるなどと、三右衛門尉にとっては思いもよらないことであった。僥倖とはこのことであろう。

 大坊は続けて言った。

「そのような世事の煩いごとを嫌って遁世したものであるが、やはり自分が代筆した目安がどうなったのか気に掛かってのう。その点、拙僧もまだまだである」

 三右衛門尉は話の先を急いで

「して、御屋形様はなんと」

「そのことよ。御屋形様は否とも応とも仰せにならなんだ。ならなんだが、かかる公事を無下にする御屋形様ではない。思うに奉行衆は論人が桃井将監殿であることに恐れを成して決裁を下さんのであろう。ここは迷わず御屋形様に直訴すべきである」

 ここに至り、三右衛門尉は大坊の言葉と、奉行が工藤源随斎や原隼人佑に交替したことが結びついた。

 国主勝頼が紛争の解決を望んでいることは明らかであった。桃井将監を論人とする公事を、この国で勝頼以外の者に解決できる道理など、はなからなかったのである。三右衛門尉は途端に足が軽くなった。大坊の許を辞すると帰路を急いだ。

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