甲相激突(三)

 織田信長とは何者だったのか。曰く朝廷、幕府等中世的権威の一切を認めない革命児。曰く鉄炮三段撃ちや鉄甲船、方面軍制度を生み出した軍事的天才。そのような評価が近年まで主流であった。楽市楽座の施行、キリスト教容認、兵農分離、鉄炮の大量運用、将軍義昭追放等、その革新性を顕すとされる事蹟は枚挙にいとまがない。周知のとおり彼は本能寺において家臣明智光秀の謀叛に遭遇して、志半ばにして斃れるわけであるが、もしそのような事件がなければ、織田信長は日本全土を平定して、延いて朝廷ですら打倒し、神として君臨したのではないかという幻想と共に語られるのが常であった。天下統一を目の前にした、その劇的な死が、一層織田信長という人物を実像から遠ざけてしまったかのように見える。

 実際のところ、楽市楽座は信長独自の政策ではなく近江六角氏等に先行事例が見られるし、信長とて切り取った領土の全域でかかる政策を施行したものでもない。キリスト教の容認については、九州大名も同じように布教を容認しており、決して信長の専売特許ではなかった。兵農分離についても、武田家など兵農未分離の軍隊だと揶揄されがちな大名ですら一年通じて軍事行動を執っていることは、遺されている文書類から明らかであって、そもそも兵農分離という用語の成立過程すら相当に怪しい。鉄炮の大量運用については、この時期どこの大名であっても出来るだけ多くの鉄炮を入手しようと躍起になっていたのであり、その意識においては信長と他大名に大差はないといって良かった。鉄炮を大量に入手できるか否かは、それが可能な地理的経済的条件が整っているか否かに左右されるというだけの話であった。足利将軍の廃立についても、細川京兆家や大内義興、三好長慶、松永久秀等にその先行事例がある。そのやり方はといえば、三好氏や松永久秀の方がよほどえげつない。義昭を殺さず、追放するにとどめた信長が生やさしく見えるほどである。方面軍制度も早い話が麾下武将の分封であって、中世の封建社会において当たり前のようにおこなわれてきた論功行賞の一形態に過ぎないものであった。

 このように眺めてみると、他の大名と決定的に異なる信長独自の政策といったものは皆無といって良い。翻って入京十年余に及ぶ信長の事蹟については多くの文書が遺されており、これらの研究が進んだ結果、信長は朝廷の権威を決して無下に扱わず、むしろ自らの権威を担保する存在として、これを重んじていたという評価が定まりつつある。それまで上総介を僭称していた信長は天正三年(一五七五)十一月に従三位権大納言、右大将に叙任され、同六年(一五七八)正月に正二位に昇った。先に右大将、内大臣に任ぜられていたから、左大臣任官が既定路線であると衆目も一致していたころの同年四月、信長は突然右大将、内大臣辞官を申し出ている。この辞官も

「信長は革命児で、朝廷の権威を認めるはずがない。だから辞官したのだ」

 という後世の誤った信長評確立に寄与した。ただ信長は辞官理由について明確に文書化しており、それは今日にも伝わっている。


昇官の儀は、ありがたく承るべきでありましょうが、未だ征伐の功が成っておらず、ひとまず今の官職を辞退します。東夷北狄は既に亡く、南蛮西戎もどうして服属しないことがありましょうか。万国安寧四海平均すれば改めて官職補任を承り、武家の長として世の統治に努めますので、顕職は信忠にお譲り下さい。


 とする上奏文である。文中には

「征伐の功が成っていないから辞官する、それが成ったら改めて承る」

 旨明記されており、征伐の功が成れば官職を承るとしている以上、辞官理由を信長の朝廷軽視の顕れと捉える余地は寸分もないわけである。むしろ武家の頂きに立って官職補任を承ると陳べており、自らをより高みに置くことによって、同時に朝廷の権威も嵩上げしようという意図が読み取れる内容といえよう。

 前置きが随分長くなったが、注目したいのは辞官の上奏文中にある

「東夷北狄既に亡く、南蛮西戎もどうして服属しないことがありましょうか」

 との文言である。東夷北狄南蛮西戎を単に「周辺の諸敵」といった意味合いとして読むか、個々具体的な大名を指しているものとして読むかで、信長の目指す「万国安寧四海平均」がどの時点で成立するかが自ずと理解できる。これは圧倒的に後者と解釈すべきであろう。「既に亡い」とされた東夷北狄は、それぞれ武田信玄、上杉謙信を指すものと思われる。この上奏文が上意に達したとき、両者は確かにこの世の人ではなかった。一方帝都から見て南方に位置する摂津石山の顯如光佐を南蛮、彼を背後から支援した毛利輝元を西戎とすると、信長はこれら四氏を滅ぼした時点を以て、自分が武家の頂点に立ったと宣言するつもりだったのだろう。中華思想に基づく夷狄の語を持ち出して辞官を上奏しているあたり、信長が中世の知識層とかけ離れた革命児などではなく、彼等とさほど大差のない常識を身に着けた人物だったことは明らかである。

 ともあれ信玄亡きあとの武田家を滅ぼすことは信長にとって万国安寧四海平均の絶対条件であった。信長は既に世を去った信玄を未だに許してはいなかった。将軍義昭擁立を前提に同盟した間柄にあり、信玄が駿河侵攻を境に窮地に陥った際には、謙信との和睦を斡旋したこともあった。信玄が最晩年に西上の軍を起こしたときも、衝突のぎりぎりまで信玄との同盟継続を模索し続けた信長である。結局信玄は、これらの裏切り行為の結果巻き起こされた戦乱について自ら決着を付けることなく、いうなれば勝ち逃げのような形でこの世を去ったのである。信長は鬱憤をぶつける相手を失い、その憤怒を勝頼に向けている状態であった。

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