西上作戦(二)

 勝の死の翌月、北条氏康の死が甲府に伝わってきた。同時に氏康が甲相同盟の復活を遺言した事実ももたらされた。同盟再締結の交渉はさっそく開始され、信玄はその間も北条方に軍事的圧迫を加えつつ交渉を有利に運び、十二月二十七日、甲相同盟は正式に成立した。

 甲相同盟成立を見越して信玄は、例年年始に実施する軍議を一箇月早めて同年師走にこれを実施した。

 信玄は躑躅ヶ崎館大広間に集う諸将を目の前に

「余は少しでも健康を保っているうちに、遠江、三河、美濃、尾張に発向して、命あるうちに天下の政務を執りたいと考えておる。このことは皆にも常々語ってきたところである」

 と発言した。

 この発言を聞いた勝頼は驚愕した。勝が亡くなったことにより甲尾の間を取り結んでいた紐帯が切れ、新たな縁戚関係を織田家との間で模索しているとばかりに考えていた信玄が、その舌の根も乾かぬうちに濃尾出兵に言及したからである。常々聞かされてきたのは天下の政務を執りたいという漠然とした信玄の願望だけであり、濃尾出兵など勝頼にとって思いもよらぬことであった。

 広間に集う諸将の口からこれに反対する意見が続出することを勝頼は期待した。信長公は公方様を擁しております。これといくさするは天下を相手にいくさすると同じ。畿内に諸敵を抱える情勢とはいえ、濃尾に兵は多く、多勢を相手に長く戦えるいくさにもなりません。

 そのような反対意見が出て来るであろうことを勝頼は期待したのだ。だが譜代重臣馬場美濃守や山県三郎兵衛尉の口をついて出る言葉と言えば、

「一朝御下命あれば、我等諸衆心を一つに喜んで御屋形様御上洛の先陣を賜りましょう」

 であるとか、

「必ずや御屋形様の馬前にて、そのお志を妨げる諸敵を打ち払ってみせましょう」

 などという、殊更信玄に取り入るような発言ばかりであった。

 辛うじて武藤喜兵衛が甲尾同盟に言及し

「その信長と当家は同盟を締結しております。これと干戈を交えるとなれば盟約違犯の誹りは免れません。如何にお考えか」

 と問うた以外は、誰も彼も

「もとより我等、御屋形様の御下命あらば一命擲つ覚悟はとうにできております」

 或いは

「帝都への発向、今から腕が鳴ります」

 などと口にするばかりで、信玄が突如示した方針変換に異を唱える者は皆無であった。

 なお武藤喜兵衛の質問に対して信玄は

「当家と織田家とは盟約を結ぶ間柄にはあるが、これなど俄仕立てに過ぎん。余が家康を攻めれば信長は旧誼きゅうぎのっとり必ずや家康に加勢するであろう。余は家康との合戦のうちに、信長が家康に加勢した証拠を取った上で信長との盟約を破棄するつもりだ」

 と甲尾同盟破棄の方法について改めて言及し、何かの間違いではないかと耳を疑っていた勝頼を絶望させた。

 信玄が口にした織田家との同盟破棄は、勝頼には一切伏せられていたのだ。これは駿河今川家の娘を正室とする義信に対し信玄がその野望を披瀝ひれきしたことによって、ただでさえぎこちなかった父子の間柄が決定的に決裂してしまった過去の失敗に学びそのような措置を採ったものと思われた。信玄は勝頼に対してぎりぎりまで濃尾出兵の野望を隠しておき、広間にて諸将の眼前にその野望を披露することで、当該方針を既成事実化したのである。外交方針の変換を巡ってのっぴきならぬ父子の対立に至ったという苦い経験が、信玄にそのような手法を採らせたのであった。

 しかし、である。

 そもそも義信が信玄に異心を抱いたのは、信玄が三国同盟破棄、甲尾同盟締結という外交方針の大変換を図ったためであって、そのことを事前に相談したためではない。その是非は兎も角従来の外交方針が堅持されておれば、多少のわだかまりはあっても義信後継の既定路線が崩れるようなことは少なくともなかったはずだ。

 かかる事態に直面して、実父に騙されたという自覚のない勝頼ではなかった。兄義信とは決して親しくなかった勝頼だったが、いまはその謀叛を決意するに至った心持ちが理解できた。勝頼はしかし、亡き兄と同様に、父に対して叛旗を翻すというようなことを考えなかった。大広間に集って甲尾同盟破棄、上洛の野望を口にした信玄に対し、反対する者が皆無だったからである。かかる情勢で同心を募っても、密告されて処断されるのがおちだった。勝頼は好むと好まざるとに関わらず、父信玄の無軌道な外交方針に従わねばならなかった。

 信長との対決路線は他の誰よりも兄義信が望んだものであった。結局こうなるのであれば、なぜ兄は死ななければならなかったのだろう。

 そこまで考え至ったとき、勝頼の脳裡に

(或いは、兄の呪いか)

 という言葉が浮かんだ。

 勝頼には、義信の呪いによってでしか信玄が信長との対決を求める理由が分からなかった。父は知らず知らずの間に兄の呪いに取り憑かれてしまったのではないだろうか。

 おおっぴらには口に出来ぬその思いは、勝頼の心の裡を暗く覆ったのであった。

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