前の巻 第二章 家督相続

西上作戦(一)

 信玄による関東出兵は北条の戦意をぐに十分であった。各所に敵を抱え、包囲の危機に陥っていた信玄であったが、信長の力を借りることで上杉、徳川を封じ、当面の敵を北条一本に絞り込めたことで優位に戦いを進めることが出来た。これにより永禄十二年(一五六九)以降、駿河における武田家の支配は進展することとなる。

 だがこのころ、勝頼は愉しまぬ日々が続いていた。勝の体調が優れないのである。もともと武王丸を産んだ直後に産褥熱を発したということがあって、体調の動向は心配されてはいた。それでもしばらくは高遠城にてゆっくり体調を整える期間もあったのだが、甲府への転居、勝頼の武田復姓に伴う式典への出席など無理が重なったことで、病を発したらしい。

「大事な我が妻だ。何とかせよ」

 勝頼の求めに対して板坂法印は

「御出産に伴い胎内に御傷が付いていたようです。御静養なされば遠からず復古する御傷ではありますが、御身辺の御負担が重なり・・・・・・」

 と言葉少なだ。

「手遅れだというのか」

 何とかせよと求めた勝頼であったが、治療が困難だという法印の見立てを現実として受け容れなければならなかった。

 過去の臨床例の蓄積により病気や症状の見立てについては意外なほど確度の高かった当代の医療も、こと治療という面から見れば、決定打と呼ぶにはほど遠い民間療法が施されるのが関の山であった。

 余談にはなるけれども、たとえばいくさ場で腹に傷を受けた場合、腸閉塞を発症して死に至るのが通例であり、そのことは広く知られた事実であった。そして、かかる症状を防ぐために推奨されたのが馬糞汁を飲み下すという行為であった。これは馬糞を溶いた水を飲んで強制的に下痢を発症させることにより、腸閉塞を防止するという蛮行にも似た荒療治である。如何に腸閉塞を防止するためとはいえ馬糞汁を飲み下す行為に当代の人々とて抵抗感は強く、甘利虎泰の子信忠などは、腹に鉄炮疵を受けながら馬糞汁の嚥下を拒む米倉彦二郎の眼前で、敢えてこれを飲み干して見せたという。麾下将卒の命を救うためとはいえなかなか出来ることではない。

 ただ腸閉塞云々以前に感染症が懸念される対処法であり、およそ治療行為と呼べない暴挙には違いなかった。

 初陣以来幾多の戦陣を踏んできた勝頼は、そういった貧弱な医療の実態を知悉していた。それだけに勝頼は勝の回復を諏方明神に祈らざるを得ない気持であった。勝は勝で、自らの死期を悟ったものであろうか、病床にありながら薙髪を望み、竜勝院殿花萼春栄禅定尼の法名を得ている。

 恢復にかける勝頼の願いも虚しく、勝は亡くなった。元亀二年(一五七一)九月十六日のことであった。

「あなたは、諏方と武田の血を引いているのです。両家累代の誇りに賭けて、強くあらねばなりません」

 もの言わぬ勝の傍らで、勝頼は母於福の言葉を思い出していた。母が死病の床のあったとき、そしてその母が亡くなったとき、幼かった勝頼がひと筋の涙すら流さなかったのは、常日頃母よりそのように言い聞かせられていたからであった。それだけに病床の母を見舞って目を真っ赤に腫らした父の姿が、勝頼には鮮烈に印象に残っていた。

 いま、勝頼は傍らに武王丸を置いていた。あの時の勝頼と同じように、武王丸は泣き言のひとつも口にすることなくただじっとそこに座っているだけであった。幼いなりに、泣いても喚いても事態が好転しないことを悟ってそうしているものか、幼さゆえに死が母との永遠の別れを意味していることに考えが至らないだけなのかは知れぬ、ただ健気にそこにある姿は勝頼の涙を誘った。

 その勝頼に、信玄が言い放った。

「我が末娘松を、信長公御嫡男奇妙丸殿と娶せようと思うておる。安心するがよい」

 信玄は勝の死を悲しいとも、悲嘆に暮れる勝頼をおもんぱかるようなことも言わなかった。母於福を見舞ったときには辛うじて残されていた父信玄の人間らしさは、いまはまったく失われてしまったのであろうか。昼夜問わず国主として勤め、武田という家を肥大化させるために働き続けてきた父に対し、勝頼は怒りや憎しみよりも憐憫の情をもよおした。そしていずれ遠からずそういった立場に身をやつさねばならぬ自らの将来に、恐怖する勝頼なのであった。

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