蒲原城攻略戦(二)

 目を京畿の情勢に転じよう。矢島村を御座所と定めた足利義秋は、虎視眈々と入京の時を狙っていた。そのため各勢力に書状を発し、自らを奉じての上洛を各地の勢力に打診すると共に、若狭武田氏や越前朝倉氏のもとを流転する生活であった。

 永禄十一年(一五六八)四月、義秋は越前在国のまま元服式を執行して新たに義昭と名乗る。

 なお、この二箇月前には義昭にとって兄義輝の仇でもある三好三人衆等の息がかかった義栄が、これもまた摂津在国のまま将軍宣下を受けて幕府十四代将軍となっている。義昭は上洛を急がねばならなかったが、朝倉義景に動く気配はない。焦れた義昭と、かねてより義昭を奉じての上洛に意欲を示していた岐阜の織田信長の間を取り持ったのが明智光秀だったと伝えられている。

 義昭は越前を出て岐阜へと入った。七月のことである。

 先に将軍宣下を受けていた義栄が不在京のまま同年九月か十月に病死したことは義昭にとって追い風となった。義昭は十月十八日、信長の後見を受けながら諸敵をなぎ倒しつつ遂に念願の上洛を果たす。十五代将軍足利義昭の誕生である。

 ただ立役者となった信長はこの手柄を以てしても自らの昇任については飽くまで無関心、上総介かずさのすけ僭称せんしょうを貫いた。

 中世的権威を無視する戦国大名織田信長の気概がそうさせたのだとする論調は今や過去のもので、信長は純粋に、この時点で将軍への馳走(貢献)が足らず、未だ任官にあたいせずと考えていたために任官を固辞し続けたのではなかろうか、という論調が近年の主流である。

 だが散位のまま信長名義の副状を附し、足利義昭の名を以て各勢力に上洛を命じた行為は軽率であって各所で反感を買った。

 朝倉義景などは信長副状の存在を以て義昭の御教書を偽書と断じ、命令を無視するの挙に出ている。朝倉氏による上洛命令無視はやがて信長による越前出兵、更に信長陣営からの淺井長政離脱という不測の事態につながり「元亀争乱」の震央となるわけだが、信長が将軍御教書に副状を附するに相応しい官職を得てさえおれば、無用の争乱は防ぐことが出来たかもしれない。

 信長にとって在京中の懸案は、今川氏真が尾張に雪崩れ込むことであった。信玄はそれに掣肘せいちゅうを加え信長を扶ける存在である。そんな時期に信玄相手に上洛を命じるような尊大な真似は出来ず、

「甲州(武田家)は遠国のため名代」

 と、代理者の上洛を求める気遣いを見せたが、ともより他人の栄達を素直に喜ぶことなど出来はしない信玄のこと、義昭相手にやっかみ交じりの不満を漏らしている。信玄もまた信長が将軍御教書に副状を附して上洛を求めたやり方に反感を覚えたのである。

 義昭、信長に加え、信玄の三者が直接顔を合わせ酒肴でも酌み交わしながら話し合えば解ける誤解であっただろうが、そのようなことが出来るはずもなく、信長に対するやっかみを隠さぬ信玄に対し、義昭は義昭で鬱憤を抱いたようだ。

 永禄十三年(一五七〇)四月、信玄は幕府に対する駿河御料所一万疋の進上と引き替えに勝頼の任官と将軍偏諱の授与を奏請したが、これが叶わなかったのは、織田信長が妨害したためだというのが従来説である。だがこの時期の甲尾同盟は実を伴う強固なものだったのであって、信長が信玄に対し悪感情を抱いていた形跡は全くない。先の不満表明により信玄が義昭の不興を買ったのがその原因ではないかとする見解が示されている。

 たかが官途、たかが偏諱と思われる向きも多かろうが、当代においては近隣の諸大名が当然に有している地位や栄典を持たぬことは不利にしか働かなかった。信長が散位のまま各所の大小名に上洛を命じ、反感を買った事実がそのことを示している。

 武田復姓を果たした勝頼であったが、官途も将軍偏諱も賜らぬ自身を顧みると、

「何ゆえ自分だけ」

 という不満を禁じ得なかった。

 ちょうどこのころ、あの工藤源左衛門尉昌秀が内藤の名跡を継ぎ、修理亮を受領して内藤修理亮昌秀の名乗りを挙げた。同時に先の三増峠合戦にて斃れた淺利右馬助信種の後継として西上野箕輪城代となる人事も発表された。

 勝頼は不満であった。

 箕輪城といえば勝頼が初陣を飾り、その後も死闘を重ねてようやく切り取った城であった。その城に入ったのがよりにもよって反りの合わぬ昌秀とは。

 勝頼にいわせれば、昌秀など淺利信種に危険な任務を押し付けて、自らは小荷駄を率いて戦場から早々に遁走しただけの卑怯者であった。

 戦後、信玄はその昌秀に対し

「源左衛門尉ほど、此度の戦の意味を理解していた者は他におらぬ。本戦の勝利のうち、九分はまことに源左衛門尉の分別によるものだ。汝等近習は、余が昌秀に感状を与えたことがないことをいぶかしんでおるだろうが、この戦巧者に下手に感状など下して他家に仕官されては、得がたい人材を好んで流出させるようなものだ。後嗣の禍根ともなろう。源左衛門尉に感状を与えないのはそのような余の心構えによるものだ。皆も源左衛門尉のように、分別というものをよく心得よ」

 などと賛辞を惜しまなかったという。

 勝頼は口には出さなかったが不満であった。

 父上はわしに対する官途奏請も将軍偏諱の授与にも失敗した挙げ句、昌秀如き卑怯者を取り立てて何となさるおつもりか。

 そう叫びたい心持ちであった。

 これこそ父子の間で腹蔵なく意見を交換すれば解消するわだかまりだっただろうが、武田家中において絶対的存在となっていた信玄に対して、勝頼も昌秀も意見することなど出来はしなかった。

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