蒲原城攻略戦(一)

 関東出兵と三増峠における甲軍の猛威は、駿河での北条方の動きを鈍化させた。確かに甲軍はこのたびの関東出兵に伴い、北条方の城をひとつとして抜くことがなかった。ただ甲軍は、草の根まで残らず引き抜かんばかりに略奪狼藉を働き、人をかどわかし、田畑を荒らし廻った。そして時折城を囲んでは行く先々で物資を調達しながら北条領内を舐めるように進軍した。それはあたかも、領内に攻め入られたときに北条方が採用する、とおり一遍の籠城戦術を嘲うかのような行為であった。城に逃げ込んだ領民の眼前で彼等の財産は根こそぎ略奪されたが、城方は兵を出してこれを追い払うということがなかった。無論、野戦に引き摺り込まれて撃滅の憂き目を見ることを恐れたからだ。

 目の前で繰り広げられる略奪行為を傍観するだけの侍衆に、北条の領民はさぞかし失望したことだろう。

 この一連の攻勢は、氏康氏政父子に

「武田との交戦は引き合わない」

 と印象づけるに十分であった。

 信玄は義信を廃してまで駿河を望んだのである。よしんば北条が援軍を出して氏真を駿河に据え直したとしても、そのような経緯から信玄が決して駿河を諦めないだろうことは誰の目にも明らかであった。信玄による駿河支配を認めず氏真を後援し続ける限り、北条はこの方面において武田との交戦を強いられ続けるのだ。頼みの綱の上杉も動く気配がない。

 事実、駿河支配に賭ける信玄の執念は尋常ではなく、三増峠において北条方を痛撃した二箇月後の同年十二月には、この年三度目となる駿河出兵を実施した。蒲原城を攻め囲んだのだ。

 これは富士川右岸に位置する山城であり、曾て今川と北条が駿東郡の領有を争った頃は境目の城として重視された要衝であった。これが今、武田と北条の間で争われることになったというわけである。

 氏康がこの城に籠めたのは一族長老北条幻庵の次男新三郎氏信を城主とする一千の軍兵であった。

 山上にそびえる急峻な山城を見上げるのは勝頼と典厩信豊。

「手柄を競うにはうってつけの城ですな」

 信豊の言葉に、勝頼が頷く。

「今回も負けはせぬ」

 二人が手柄を争った武蔵滝山城攻めでは、一騎討ちにて敵将を屠り三の丸を陥れた勝頼の勝利ということで信豊にも文句はなかった。彼はその雪辱を期しているのだ。勝頼を追い越そうという信豊の存在は、勝頼にとっては良い刺激となった。

 二人は例によって城の外郭に自ら取り付いて攻め上った。双方の麾下も主人に後れを取るなと言わんばかりに激しく先陣を争う。寄せ手が多勢だったこともあって城方は防ぎきれず甲軍の乗り入れを許し、同日中に城は陥落、城主北条氏信以下その弟長順ちょうじゅん、狩野新八郎、清水太郎左衛門、笠原為継、荒川長宗等主だった城将はことごとくが討死うちじにした。

 つい二箇月前におこなわれた関東出兵においては、ひとつの城すらも落とすことのなかった甲軍が、駿河攻めにおいては北条方の一門重鎮を殺害してまでも城の入手にこだわったあたり、駿河支配に賭ける信玄の執念が垣間見える処断ではある。

 なお信玄は蒲原城攻めの直後、永禄十二年(一五六九)十二月十日付で徳秀斎なる人物に宛てて手紙を発送している。


蒲原落居に就いて、早々御音問祝着に候。抑も去る六日当城の宿放火候き。例式四郎・左馬助聊爾故、無紋に城へ責め登り候。まことに恐怖候の処、不思議に乗り崩し、城主北条新三郎兄弟、清水、笠原、狩野介已下いかの凶徒、惣て当城に楯て籠もる所の士卒、残らず討ち捕らえ候。当城の事は、海道第一の嶮難の地に候。此の如くすなわち本意に達し候。人のすに非ず候。あまつさえ味方一人も恙無つつがなく候。御心易かるべく候


 信玄は文中、蒲原城攻めにおける勝頼信豊両名の活躍を

「例によって軽率な二人であるが、不思議なことに城に乗り入れて落としてしまった。城は東海一の険難の地であるにもかかわらず、味方に一人の犠牲も出なかった」

 と書き送っており、意外な親馬鹿ぶりを発揮している。

 一方、戦死した城将北条氏信を巡っては、勝頼と因縁浅からぬ話が続く。

 先に氏信は幻庵次男だったと記した。ただ兄が夭折したので家督を相続したのはこの氏信だった。幻庵は蒲原城において跡取りを失ったのだ。

 氏康は幻庵に自身の七男北条三郎を入嗣させて埋め合わせた。

 同じ頃、越相同盟成立により輝虎より人質を求められた北条氏では、一時氏政次男国増丸を出すという話になったが氏政がこれを拒否したことにより、幻庵に入嗣したばかりの三郎が人質として越後へ赴くこととなったという。彼こそ養父謙信死後、その甥喜平次景勝と血で血を洗う抗争を展開することになる上杉景虎その人である。

 勝頼と三郎景虎の運命は八年後、今度は遠く北の地で交錯することになるのであるが、無論そのことについて知る由もなく、今はただ目の前の敵を着実に倒していくことで精一杯の勝頼だった。

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