三増峠の戦い(五)
十月一日、甲軍は後北条氏の本拠小田原城を取り囲んだ。だがこれなどいわば示威行為であり、もとより本気で攻め落とそうなどと企てていたものではない。本戦役の目的は飽くまで北条氏を親武田に翻意させるためなのであって、小田原城を落とすという行為がその目的にそぐわないものであることは今さら多言を要しないだろう。したがって信玄は、四日には城下に火を放って帰国の途に就いた。
帰国にあたり信玄が
「殿軍を担うは誰か」
と一同に問うたが、難しい任務に好んで応じようという者がない。
そこへ名乗りを挙げたのが勝頼である。
「出来るか」
信玄の問いに
「出来ないと思っておれば名乗り出ません」
という勝頼のこたえ方は、寧ろ傲然としたものであり殊更信玄に気に入られようと努めているふうもない。
実際そのとおりであり、勝頼は信玄に気に入られようというよりは、初陣の時に感じた
(あれこれと先々のことに思いを巡らせるのではなく、目の前の敵を打ち倒すことこそ肝要)
という手応えが正しいことを実証するために、自ら殿軍を申し出たのである。
思えば亡き義信は、産まれたときから武田の嫡男として養育されてきた生粋の信玄世継ぎであった。学問や武道の素養を叩き込まれ、信玄の後継者として相応しい能力を必死の思いで身につけただろうことは想像に難くない。翻って勝頼といえば信玄庶子として高遠諏方家を継承することを予定されていた身であり、授けられた教育、武道の鍛錬、いずれとっても嫡男に劣るという自覚があった。だがいくらそのことを自覚していようとも、兄はもうこの世にはいないのである。泣いて懇願しても、義信が武田を背負って
勝頼は必死であった。幼かったころの兄義信が必死になって勉学や武道に励んだのと同じように、必死になって戦った。義信ほどの教養も武道の心得もない勝頼は、そうすることによってでしか、自分の力を信じることが出来なかった。自分の力を信じるために、敢えて困難な任務に自ら名乗りを挙げたのであった。
さて案の定、帰国の途に就く甲軍を付け狙うように、小田原城内から追っ手の一団が駆け出してきた。旗印から、北条家重臣松田
「手合わせ願おう」
とばかりに勝頼の前に罷り出たのは酒井十左衛門を名乗る松田左衛門佐の家老であった。
勝頼は諸岡山城守を屠ったときと同じように、一騎討ちにて数十合も酒井十左衛門と鑓を合わせたが、これはなかなかの使い手であり容易に打ち落とせない。十左衛門が鑓の柄を競り合わせながら、勝頼を馬から引き落とそうとするので、その手を防ごうと手四つに組み合うほどの激闘であったという。
だがやはり二十四歳という若い勝頼。体力も持久力も充実しており、重い具足を着込んでの一騎討ちに先にへばったのは酒井十左衛門の方であった。
勝頼は大息を吐く十左衛門の鑓の穂先が疲労により上がらなくなった頃合を見計らい、遂に彼を打ち落とした。見事追っ手を打ち払い、殿軍という難しい役目を成功に導いたのである。
だが甲軍の危機は容易には去らない。間もなく甲相国境というところで、北条氏照率いる滝山衆を筆頭に、武蔵鉢形衆、玉縄衆二万が三増峠に出現したのである。
小荷駄を率いる工藤源左衛門尉昌秀は荷車を押す
馬場美濃守信春は眼前に立ちはだかり帰国を阻もうとする氏照氏邦の陣を何とか食い破ろうと奮闘していた。もとより殿軍を仰せ付かり遅れ気味だった勝頼は、馬場美濃守が敵方と揉み合いながらも前方に押し出すことが出来ないために、自ら騎馬の一団を編成した。これを駆け上がらせ、
目の前の馬場隊が小勢であることに油断していた北条方は、突如横入に出現した勝頼の一団によって散々に叩かれた。ただ敵方もこの一撃で撃ち倒されるほど脆弱ではなく、なおも乱戦は続いたが、先行して志田峠に向かっていた山県三郎兵衛尉昌景の一隊が更に横入すると、これには北条軍も驚き慌て、本営のあった三増峠に引き返そうと試みる。
しかしその目を驚かせたのは、峠上に翻る孫子旗であった。北条方が乱戦を有利に進めている間に、信玄本隊が三増峠の敵本陣を占領してしまったのである。これにより戦意を喪失した北条方は三千もの犠牲者を出して潰乱した。
甲軍はここに、圧倒的勝利を得たのであった。戦国時代屈指の山岳戦であり、世にこれを、三増峠の戦いと称する。
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