西上作戦(四)

 信玄の政治姿勢を無定見なものと感じていた勝頼であったが、父の軍略はそれと反比例するかのように冴え渡っていた。五万を号し、北条氏政の援兵をも加えて実数二万七千の甲軍を二手に分け、三遠を瞬く間に席捲したのである。その前に立ちはだかった二俣城をひと月に及ぶ包囲戦で陥落せしめたのち、信玄は当然浜松城を攻め囲むであろうという大方の予想を裏切って西進を続けた。家康を浜松城から誘き出すためであった。

 祝田ほうだの坂と呼ばれる、三方ヶ原台地の西の下り坂に差し掛かったとき、その台地上に家康率いる織徳の連合軍一万一千が出現した。信玄の狙いどおりである。

 信玄はその情報を察知するや全軍に反転を命じ、そのあまりの素早さに攻撃の時を逸した織徳連合軍と台地上で対峙するに至る。甲軍の布陣は魚鱗であった。

 元来優勢の敵に対して、その一点に圧力を集中させることにより突破を図る魚鱗の陣を、遥かに劣勢の敵方に向かって布いた信玄の意図は明瞭であった。すなわち家康の頸ひとつを狙っていたのである。慌てた家康は全軍を鶴翼に布陣してこれを受け止めようとい形だ。

 戦端は申の正刻(午後四時ころ)に開かれた。甲軍先陣の小山田左兵衛尉信茂が、石礫いしつぶてを敵陣中に投擲し始めたのが端緒となった。それまで心静かに陣形を保ち、一戦交えることなくそのまま何とか引き退こうと画策していた家康の目論見はこの石礫の投擲によって打ち砕かれた。矢弾の掛け合いによらず、石が投げ込まれてきたことで織徳連合軍先陣を務めていた石川数正隊の一部が激怒し突出したのである。

 家康はかかる軽挙妄動に激怒したが、始まってしまったいくさを止め立てする妙案などもとよりなく、怒りに任せ突出した先陣の勢いを恃んで総掛かりを命じる以外になかった。両軍合算して四万にも及ぼうという大軍が入り乱れる。あとがない徳川軍は力戦奮闘し、はるかに多勢の甲軍を圧倒した。先陣の石川隊は小山田隊、続いて山県隊に襲いかかり、勢いを保ったまま両部隊を二三町(約二二〇メートルから約三三〇メートル)も引き退かせることに成功する。これに続くのは本多平八郎に松平家忠、小笠原長忠といった徳川随一の精鋭部隊である。右翼部隊の酒井忠次一隊も、内藤修理亮昌秀の部隊に躍りかかってこれを追い詰めたと伝わるから、三河勢の奮闘ぶりが窺われる。

 ころは年末も押し迫った十二月二十二日であった。戦端が開かれるころにはちらつく程度だった雪が、合戦もたけなわのころには横殴りの降雪になっていた。勝頼は愛馬の陰に身を隠すようにして、雪を凌いでいた。馬上衆の物主ものぬしを命じられていた勝頼の周囲には、同じように馬の傍らで雪を凌ぐ侍共がひしめいていた。

 これだけの規模の合戦である。馬上衆が乗馬を命じられ、敵陣中に乗り入れるにはいま少し時間がかかるものと思われたそのとき、信玄本陣より百足衆が飛んできて勝頼に命令を伝達した。

「馬上衆の横入よこいれをとの御諚!」

 勝頼は慌てたが、人々に騎乗を命ずるとくだんの鎌鑓を引っ提げてあぶみを蹴った。後ろを振り返ると、疾駆する騎馬の首にしがみつくような馬上衆が台地の泥を跳ね上げながら勝頼に続く。目の前では小山田、山県の両隊が敵方に押され必死の防戦を繰り広げているところであった。勝頼はこれら味方部隊を押しまくっている三河勢に横入よこいれした。

 横入を加えた勝頼率いる馬上衆の馬術は巧みであった。騎馬の暴れるに任せ鞍上に身を翻し、四方八方の敵を鑓で突き、或いは馬蹄によって文字どおり蹴散らして廻る。甲軍の馬上衆を前に、いかな精強を誇ろうとも三河勢とて戦うすべを知らずなされるがままだ。つい先刻までの勢いもどこへやら、武具や指物を捨ててひとりふたりと戦場を離脱する者が出始めるとあとは早かった。

 押されていた甲軍は勢い盛り返し、逐われる立場から逐う立場となった。もとより多勢に無勢の織徳連合軍はあっという間に潰乱した。もはや戦場は一方的な殺戮の場と化していた。

 勝頼は乱戦の中を、家康本陣を目指し駆け回っていた。勝頼には家康の頸一つを狙っていた父の存念が理解できた。もし、今この戦場において家康を討ち取ることに成功したならば、三遠の支配が武田に帰すること及び、その恐慌が忽ち尾張に伝播し、家中衆の殆どが尾張に本貫地を有する織田家臣団が早期に瓦解することもまた明らかだったからである。

 この戦いを契機として、武田が織田家と断交することはもはや疑いのないところであった。その運命が避けられない以上、早期に決着を図り勝利を収めることこそ、信玄そして勝頼が採り得る最善の方法であった。

 冬の候であって日没は早い。合戦が始まって一刻(約二時間)あまりで大勢が決するというのは、この規模の合戦としては異例の早期決着であったが、惜しむらくは開戦が遅かったために辺りが忽ち真っ暗になったことだった。

 家康の頸を求めて狂奔する勝頼の耳に退き太鼓の音が聞こえてきた。勝頼は舌打ちしながらも麾下の兵卒をまとめて、帰陣しなければならなかった。

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