新府移転(七)

 新府城門前にて勝頼一行と引き別れたのは、高遠城へと向かう松姫の一行であった。一行にとって傍から見た新府城は、さながら禿げ山であった。版築された土塁が僅かにそれが人工物であることを感じさせる程度で、注意深く見てみなければ、それが百姓によって木々を刈り取られた禿げ山と見分けの付かぬものであった。なので高遠城を目にしたとき、下伊那支配の拠点として聳える高遠城が、彼等一行の目には新府城よりも遥かに大きく、また強いもののように見えたのであった。高遠城では普請役の人々が忙しく立ち働いていた。遠州高天神城が陥落した今、下伊那が信州防衛の前線となり、その拠点たる高遠城も単に政庁としてのみならず防衛拠点として整備する必要に迫られていたからであった。釘を打ち付ける金槌や鋸を引く音、合力して木材を担ぎ上げる人々の声が引きも切らずに辺りに響く。土塁には坂茂木、乱杭が備えられ、物見櫓が幾筋も増設されていた。松姫は本丸の奥の間へ入る前に、つい先日高遠城代として入城した武田五郎信盛の許に挨拶に赴いた。

「兄上、お久しうございます」

 松姫は晩年の父信玄や異母兄勝頼には見せなかった、穏やかな表情でそう言った。

「まこと久しいの。息災であったか」

 上座に座する五郎信盛を見て、松は前回会ったときに比べて全体的に骨が太くなった印象を受けた。幼少のころに安曇の仁科家に養子に入り、御館の乱に際しては仁科の当主として越後頸城郡に縦横無尽の活躍を見せた五郎信盛である。彼の武将としての経歴は始まったばかりであったが、飛騨国衆の帰属を巡る織田家との暗闘などが、ともすればひ弱な印象さえあった五郎信盛を骨太に育て上げたのであった。その信盛も、まだ成長の途上にある。

「府中に身を置いていたころは、兄上の近くにあって何かと気を遣ったであろう。だがここでは心易く過ごすがよい。なんといってもわしとそなたは母を同じくする兄妹なのだからな」

 信盛が言うように、信盛と松は同母兄妹であった。信玄はこの兄妹の母である油川夫人との間に、四人の子をもうけていた。五郎信盛、六郎信貞、松姫と、先年上杉景勝の許に輿入れした菊姫の四人である。また信玄は正室三条の方との間にも、嫡男太郎義信をはじめ三男二女をもうけており、こういった女性達との関係を考えると、於福との間で勝頼一子しかもうけなかったことは異例であった。信玄と於福との間柄が実はそれほど良好ではなかったためか、於福の病弱だったためか、その辺りは判然としない。

 兎も角も、庶流で母を同じくする兄妹二人は、信州高遠において十数年ぶりに住まいを共にすることとなった。

 衆目には破談が明らかだった織田信忠と松との縁談であったが、松は依然それを諦めてはいなかった。実は国交断絶後も、松の許には信忠からの手紙が折に触れ届けられていたのである。勝頼が甲江和与や甲濃和親に動いたとき、松の許に届けられた信忠の手紙を見せるよう松に求めたことがあった。だが松はこれを頑なに拒んだ。内容はというと、松の体調を気遣うものや季節の移り変わりに言及したものなど、特段代わり映えしないものばかりであった。中には信忠が婚儀を挙げるに際し、女は側室で、父信長の命令によってやむなく結婚したものだ、自分は松姫以外に正室を置くつもりはない、という詫び言めいた内容の手紙もあった。信忠が、手紙とはいえまだ見ぬ松姫に対する細やかな愛情を示したことで、松はともすれば諦めそうになる信忠への入輿を、なんとか信じることが出来ていたのである。それを、御家の危機だからといって、織田家との関係をこじれさせた勝頼に見せるつもりは松にはさらさらなかった。それで勝頼が困り果てたとしても勝頼の自業自得なのであって、松には与り知らぬ話であった。もしそのために和与や和親が破綻して織田家が武田分国に攻め寄せてきたというのなら、松はそれを契機に信忠に迎えに来て貰いたいとすら考えていたのである。御家の危機や滅亡など、松の知った話ではなかった。松が信忠への輿入れを依然として信じることが出来るほど、信忠は手紙で松に対する深い愛情を示していたのであった。その松姫の心根を知るのは、勝頼ではなく五郎信盛であった。

 松はこの高遠城で、自分の本心を知る実の兄五郎信盛の庇護を受けながら、信忠への入輿の日を夢見続けた。五郎信盛と信忠、そして自分自身を、どのような運命が見舞うことになるのか、神ならぬ身に知る由もない松なのであった。

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