新府移転(六)

 新府へと入る者達は、重低音を響かせながら開く門内に櫓や塀などの防御施設を見なかった。ただ複雑に入り組んで版築された土塁が、ここに枡形虎口を建築するのであろうという意図を感じさせるだけであった。警固役の侍衆を引き連れては来たが、彼等はこの役を終えると依然宿泊施設を持たない新府城を出て、それぞれの在番城や本貫地へと帰らなければならなかった。新府城には、勝頼の一族及び旗本近習のほか、最低限の在番城だけが残ることとなった。新府移転がおこなわれたのは天正九年(一五八一)も押し迫った十二月二十四日であった。勝頼が落成を宣言した本丸御殿であったが、ようやく家財を運び込んだばかりの御殿、冬の寒さが一門の身に浸みたことは想像に難くない。林は白い息を吐きながら、一旦通された奥の間を出て真新しい御殿を隅々まで物珍しそうに見て回っていた。侍女は、子供のようにはしゃぎ回る林に付いて回って

「未だ、御屋形様が広間の御旗本衆に訓示なさっているさなかです。かようにはしゃぎ回られると、あとで御屋形様に叱られますよ」

 とこれを止めようとするが、まったく雰囲気を新しくした住まいに林が喜ぶのも無理はない。なので林は、先ほどまで口うるさく林を止めようと付いて回ってきていた侍女がその場にひれ伏すまで、背後に勝頼が立っていることに気付くことがなかった。林は勝頼に気付くと、胡蝶のようにはしゃぎ回っていた先ほどまでと打って変わって、恭しくその場に手をつき伏した。

「気に入ってくれたか」

 勝頼はその林に対して優しく声を掛けた。

「見てのとおり、御殿以外は櫓や門も半造作の有様だ。しかしそういったものはおいおい作事を進めて行けばよい。余が分国の人々に下知し、そなたが暮らすことの出来る御殿さえはあれば、そういったものを急ぐ必要はない」

 勝頼が続けた言葉に、林は

「新木の香り、一点の汚れもない床や壁。あんまり嬉しくて、お見苦しい姿を見せました」

 と謝ったが、勝頼は

「何を詫びることがあろう。喜んでいるそなたの邪魔をするつもりはなかったのだが、あまりに嬉しそうに見えたので、無粋も顧みずこのようにそなたの近くへと来たのだ」

 と言った。勝頼は伏した林の手を取った。

「案内致し申そう」

 そう言うと勝頼は、林を連れて御殿を出た。削平がなされたとはいえ、人の踏みならさない敷地を歩くことは林にとってひと苦労であった。勝頼と手を握りながら、足下の凹凸を気にしながら歩いていた林の耳に

「見よ」

 という勝頼の声が聞こえてきた。林が顔を上げると、眼下に伸びるのは七里岩。凍てついた七里岩の台地は日にさらされ、白く輝いて見える。厳冬の候であったがその日は珍しく空が晴れて澄み渡り、七里岩の彼方にある盆地の、更に向こう側にそびえる山々の雄大な姿までも林の眼に飛び込んできた。

「きれい!」

 林は思わず歓声を上げた。林の歓声をつまでもなく、新府城本丸より諏方を臨む眺望は、人知に基づいて形作られたこの世の如何なる装飾品をも超越して精緻であり、一分の隙もなかった。冬のほとんどの期間、濃灰色の厚い雲に覆われがちなこの地域にあって、一瞬の快晴を見せた青い空と白い大地との対比は、見る者すべての心を何らかの形で動かしたに違いない。

「この場所に立つと、諏方の大社おおやしろが美しく映えるであろう。先年の落慶供養以来、足も遠のいておる。近く、共に詣でよう」

 勝頼はずっと北を指差して言った。林の視線は勝頼の指差す先に注がれた。林の眼前には、五年前に勝頼に連れられて訪れた諏方大社の威容が浮かんでいた。勝頼に付いて参道を歩み、生涯添い遂げると決意した良人おっとと並んで美しい社殿に入る自らの姿を思い出したのである。

(次にお参りするときには、御屋形様との間のお子を宿しているかしら。どうか、そうでありますように)

 口には出さなかったが、林はこの得難い景色を眺めたことを機に、年来の願望を心の内に唱えたのであった。

 一方の勝頼もまた口には出さなかったが、新府城本丸に立って諏方を臨みながら思うところがあった。勝頼にとって新府移転は信玄遺言の総仕上げの一歩手前であった。長篠において織田徳川との決戦を決意したことも、信玄死去が半ば公然の事実として諸国に知れ渡ったにもかかわらず三年秘喪を遵守したことも、また北条氏政との手切を決意したことも、すべては信玄遺言を遵守した結果であった。そして今、勝頼は信玄が本拠の移転先として生前口にした韮崎に本拠を構えるに至ったのである。作事は半ばであり全面的な完成にはほど遠かったが、これが完成を見た日に、勝頼は太郎信勝に家督を譲ることを秘かに決意していた。そうすることによって自分は父信玄の遺言をすべて守ったことになり、晴れて第一線を退くことが出来るのだ。

 武田家は代替わりのたびに内訌を繰り返してきた。しかし自分から信勝への代替わりの限っては、そのような事態とは無縁であると勝頼は信じ切っていた。なぜならば勝頼は、家督を信勝に譲ったあとは、新主太郎信勝の采配のもと頭を丸め出家して、家老のような立場になって若かったあのころと同じように、名状しがたい昂奮に包まれる戦場を、馬に跨がり鑓一本で駆け巡ることを願っていたからである。そのような願いを持っていたから、隠遁後に何ごとかを企む者があったとしても、担がれて表に立つ自分の姿を想像することが出来ない勝頼なのであった。

 しかし同時に、自分が信勝に家督を譲ったとして、今、自分の隣に慎ましく添う林には、つらい思いをさせることになるだろうという申し訳なさも勝頼にはあった。勝頼正室とはいえ、信勝の継母であって直接的な血縁を持たない林が、来るべき信勝治世においてどのような立場になるのかと考えて心配したのだ。眼下に広がるこの美しい景色を林に見せたいと思ったのも、林に対する贖罪の意識があったからだ。もし、その林との間に子が誕生した場合はどうなるのか。そして、その子が男児だった場合は・・・・・・。このように考え始めると勝頼の胸中は途端に薄暗くなった。林は勝頼の胸中を覆う暗雲に、微塵も気付かぬ様子である。

 勝頼と林、並んでどれほどの時間、壮大な風景の中に身を置いていたものか知れない。

「雪!」

 林が言った。先ほどまで晴れ渡っていた空は、あっという間に分厚い雪雲に覆われていた。辺りは急に薄暗くなった。勝頼は我に返った。急な空模様の変化は、あたかも天が勝頼に対して、未だ発生もしていない将来のことについて心配するのを止めよ、叱咤しているもののように思われた。

「御殿に帰ろう」

 そう言うと、勝頼は足下の覚束ない林の手をとりわけ優しく握り、林が倒れるようなことがないよう、その歩みを補いながら、御殿へと入っていったのであった。

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