鳥居峠の戦い(一)
苗木遠山友忠は一通の手紙を菅屋九右衛門長頼に示した。友忠の顔面は上気していた。九右衛門長頼の元へとよほど急いだものか、手紙の内容に昂奮したものか、或いはその両方かもしれなかった。
「兎に角、御覧じろ」
息を切らせつ友忠が九右衛門に手紙を示すと、そこには、
木曾谷安堵に加え安曇、筑摩両郡を御加増下さるという
と記された、木曾義昌からの手紙であった。
「遂に武田分国に穴が空きましたぞ」
遠山友忠は好機到来とばかりに前のめりになって注進した。
無論そのことを知らぬ長頼ではない。早速安土に馬を飛ばし、木曾が調略に応じつつあることを報せた。
信長は長頼からの報告を得るや、
「武田分国をその掌中に収めようというのだ。筑摩、安曇などの小郡に拘泥してこの機を逃す手はない。早速義昌に宛てて朱印状を発給せよ」
と右筆に命じたあと、矢継ぎ早に
「家康に馬を飛ばせ。年が明ければ武田攻めを敢行するのでその準備をしておくように伝えるのだ」
「金に糸目を付けず、諸国に命じて兵糧二万石を至急買い入れろ。うち八千石は浜松へ輸送せよ」
「朝廷に使者を遣わせ。治罰の綸旨を得るのだ」
「社寺に命じて武田氏調伏を祈禱させよ」
と命じた。
そして岐阜在城の嫡男信忠を安土に呼び寄せて、来年の甲州征伐を告げた。
信長は信忠に対し
「木曾義昌が当方に忠節を誓った」
と切り出した。
信忠は来るべきものが遂に来たと即座に悟った。そして父信長が何事か下知する前に、自ら進んで
「甲州征伐の総大将の任、どうかそれがしにお申し付け下さいませ。思うに父上は、それがしが松姫を気遣って鋭鋒が鈍ることを心配し、このようにお呼び立てなされたのでしょう。しかし心配には及びません。確かにそれがし、松姫との婚儀を諦めたわけではありません。しかしいくさするに当たって分別の利かぬ信忠でもありません。もし武運拙くそれがしが
と重ねて懇願した。
信長はこれを聞くや
「聊爾者め! そなたは織田家の跡取りであるぞ。余は甲州征伐ののち、その手柄を以て征夷大将軍位に昇ろうと考えておる。そなたはその後継。余に継いで二代将軍とならなければならぬ身なのだ。織田家が将軍家として後代に続くか否かはそなたにかかっておるといっても過言ではない。斯くの如き余の存念も知らず、軽々に討死などと口にするでないわ!」
と大喝した後、
「この信長の嫡男として日々勤しんできたそなたを知らぬ余ではない。そなたが甲州征伐に際して、松姫との旧誼に与し手心を加えるなどと心配して呼び立てたものではない。そなたはきっと織田家当主として、信濃、そして甲州に存分に働き入るであろう。そのことは心配しておらぬ。余が心配しているのは、四郎勝頼の武威だ」
と、信忠にとって意外なことを口にした。
信忠にとって武田家は、長篠敗戦以来昔日の勢いを失い、東濃、北三河、更に近年遠江を失陥した落ち目の大名でしかなかったからである。ことに、東濃岩村城攻略の際には信忠は、その総大将として武田方と干戈を交え、撃砕した経験があった。その信忠にとって、信長が今更勝頼の武威を恐れていることが不思議に思われたのであった。
きょとんとする信忠に対し、信長が続けた。
「その様子では、そなたは四郎勝頼の武威を見くびっておると見える。思うに長篠、岩村での戦勝を経たためであろう。しかしかかる安易な見立ては誤りであるぞ」
信長はそのように警句を発し、武田は近年甲州金の産出が枯渇していること、そんな中、駿河及び上州方面でさかんに軍を出して連戦して戦費が嵩んでいること、加えて韮崎に新城を築き、いよいよ財政が逼迫していることを列挙して
「並の大名であれば、加増も叶わず人々の不満が鬱積して寝首を掻かれかねない情勢にありながら、徳倉の笠原新六郎などは勝頼の武威に惚れ込んで武田に与したことを知らぬそなたではあるまい」
と言った。
信長の言うとおり、信忠は徳倉城主笠原新六郎が武田に靡いたことを知っていた。そしてその際の笠原新六郎の言い分が
「黄瀬川対陣や膳城素肌攻めの際の勝頼の武威に惚れたから」
というものであることも知っていた。
しかしそれなど建前に過ぎず、本音では笠原新六郎が北条家中で冷や飯を食わされていたからだと信忠は思い込んでいた。それもまた事実だったのだが、信長は
「城を挙げて武田に転ずる理由になるほど、勝頼の武威が世に知られておるということだ。余はその勝頼の武名を失墜させるために高天神城を干殺し同然に蒸し落とすよう家康に求めたが、木曾義昌が織田家に転じたかと思えば笠原新六郎のように勝頼に靡く者も未だにある。高天神落城の武名の失墜と、黄瀬川対陣や膳城素肌攻めの高名とは依然相半ばしており、勝頼が安易な相手だと見るのは間違いだ」
と指摘したのである。
そして
「そのような勝頼を相手に、我等はこれからいくさしようというのだ。木曾の謀叛を契機に我等挙兵せねば、勝頼はいずれ遠からず木曾の謀叛を知って必ずや木曾を揉み潰し、その方面の手当てをおこなうであろう。勝頼は切所を構えて国境を固く閉ざし、そうなれば甲州征伐の機はさらに遠のいて、天下静謐が果たされる日はまたぞろ先延ばしになるに違いない。余が木曾の服属を以て甲州征伐を急ぐのはそのためだ。そして当代に稀なる武勇を誇る四郎勝頼のこと。我等甲信に働き入ったとして、寄せ手の急所を過たず見破り、脇目も振らずそこへと駆け入ることは必定。なぜならば勝頼ほど、我等二人の頸を求めている者は他におらんからだ。もし、このたびの甲州征伐によって万が一そなたが討死するようなことになれば、織田と武田の年来の力関係は一挙に逆転することになるであろう。勝頼はそなたの頸を鑓の穂先に掲げて美濃、遠州に雪崩れ込み、濃尾の国衆は勝頼の武威に瞠目して一斉に武田に靡くであろう。家康は勝頼に靡くか、撃砕の憂き目を見るか二つに一つだ。我等は播磨の羽柴、北陸の柴田に後詰することもままならず、五畿内の保持すら危うくなるのだ。そのことを忘れるな」
と、この期に及んで最悪の事態を具体的に示しながら信忠に甲州征伐に向けた覚悟を促したのであった。
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