直訴(五)
「愉しんでいないようだな」
「そのようなことはございません。御屋形様とこうやって湯治に出られるなんて久しぶりのことで、悦びに心を満たしております」
林はそのようにこたえたが、勝頼は続けた。
「そなたにだけは嘘を言ってもらいたくないものだ」
「そんな、嘘だなどと・・・・・・」
林は、志摩の湯において勝頼との時間を共有できることを事実悦んでいた。しかし、兄三郎景虎のことが気に掛かるのもまた事実なのであった。
勝頼はそんな林の心のひだをめくり、内心の奥の奥まで見通して
「愉しんでいないようだな」
と声を掛けたのである。
その表情は、鉄面皮のようだったあの時の勝頼とはまるで別人であった。国主としての顔でもない。内心に愁いを湛える妻を気遣う、一人の男がそこに在った。
勝頼にそうやって声を掛けられると、林は
(この人の前では心を上塗りしても無駄だ)
と思い至り、正直に内心を語った。
「申し訳ございません。兄のことがどうしようもなく気掛かりなのです。争いを好まない、優しかった兄。いくさには向かぬと父が仰せであったことを、幼心に覚えております。そのために越後へ養子に送られ、雪深い越後で望まぬ争いに巻き込まれた、かわいそうな兄」
勝頼は黙って林のその言葉を聞いていた。
林は兄三郎景虎のことについて話すのは、これでお終いにしようと思った。もし自分が北条の人間としての立場を前面に押し出して三郎救出を懇願したら、勝頼には逃げ場がなくなってしまうのだ。だから、そういった難しい話はこれまでにして、勝頼と共に志摩の湯に来ることが出来た悦びを伝えようと考え、
「でも、御屋形様とこうやって湯治に出られたことも、私にとっては・・・・・・」
悦びなのです、と言葉を継ごうとしたときである。供廻の者が勝頼に伝えた。
「信濃国筑摩郡小池郷士がまかり越してございます」
そのときである。林は声を荒げて
「なりません!」
と言った。
林が声を荒げる様子を初めて見る勝頼は一瞬驚いた表情を見せた。
「今日は駄目です! 帰ってもらって!」
林は涙を流しながら訴えた。
兄三郎を心配する気持ちは包み隠さず勝頼に伝えた林である。しかし、勝頼と共にこの時間を過ごすことが出来る悦びを十分に伝えたとは思っていなかった。なのに良人は、またしても政務のために自分の前から消えようとしている。林にはそれが耐えられなかったのだ。そんな林に対して、勝頼は困ったような表情を示しながら、その肩にそっと手をやって言った。
「これ、そのようなわがままを言うものではない。昨年の夏から山に入ることも出来ず、薪や炭を作ることが出来なかった人々だ。貧窮してこのように直訴に及んだのであろう。話は聞いてやらねばなるまい」
勝頼に困ったような顔でそう言われると、林は
(私だけはこの人を困らせてはいけない)
と思い至って、それ以上言葉を継がなかった。林は、あっという間に公人に戻ってしまった良人の背中が、涙で歪んで見えたのであった。
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