国破山河在(二)

 話は武田家滅亡の前後に遡る。

「甲陽軍鑑」「甲乱記」等諸記録に残る田野合戦の戦死者殉死者名簿の中に、理慶尼の元夫雨宮織部正の名前はない。新府城を落ち延びた勝頼一行が勝沼の大善寺を訪れた際、理慶尼から

「すべては無駄だったのですね」

 と言われたことは、雨宮織部正に、雨宮の家名を存続させなければならないという決意を新たにさせた。ここで武田と運命を共にするということは、理慶尼のいうとおり、松葉(理慶尼)と離縁してまで遺そうとした家名を失うことにつながり、文字どおりすべてを失うことになると織部正は思ったのである。織部正は夜半、こっそりと寺域を脱出して逐電した。もとよりそのように武田を見限る人々が数多あった時節であって、今さら織部正ひとりの行方を探索するほど勝頼一行もひまではなかったからそのまま捨て置かれたが、雨宮織部正の行方は杳として知れず、以後は雨宮家の活動も見られなくなった。甲州征伐の混乱の中で、織部正は織田勢か地下人ぢげにんかに討たれたのだろう。

 大島城を捨てた勝頼叔父逍遙軒信綱は、大島城を落ち延びた後、甲斐府中にあった自邸に籠もっているところ、織田勢の捜索を受けて身柄を拘束され、処刑されている。死に臨んでどのような態度を示したものか、記録は遺されていない。

 勝頼側近としてその滅亡間際まで従っていた長坂釣閑斎光堅は、最後の最後で勝頼を見限りその一行から逃走した。釣閑斎もまた、逍遙軒信綱同様自邸に隠れていたところを織田方に発見され処刑されたという。

 次に穴山梅雪である。甲州征伐の一両年前から色立(謀叛)を企てていたというだけあって、家康に通じてから以降の身のこなしは鮮やかそのものである。家康麾下の将兵が穴山領内で乱妨狼藉に及んだと知れば、家康に宛てて文書をしたため損害の補償を求めたり、年貢徴収の時期が近いが領内が混乱しているので助力を賜りたいと家康に依頼する文書が遺されている。宗家滅亡という事態に接して、浮き足立っている様子は微塵もない。

 梅雪は勝頼が少数の供廻りと共に田野で奮戦し、匹夫のやじりを受けながら悲惨のうちに滅亡したことを聞いて、胸の裡をちくりと刺されるような罪悪感を覚えた。それは間違いなく罪悪感であった。宗家を裏切り滅亡へと追いやったことを自覚していたがために覚えた罪悪感に他ならなかった。梅雪はその罪悪感をいて振り払った。

(わしが悪いのではない。四郎が高天神城を見限ったのが悪かったのだ)

 梅雪はそのように考え、武田宗家の滅亡は詰まるところ惣領勝頼の失政によるものだと自分に言い聞かせた。

 梅雪は勝頼滅亡の直後、亡母南松院殿の十七回忌法要を執行している。梅雪はそののなかで、亡母の法要とはおよそ無関係な内容を記して奉納した。


本州太守勝頼公は治世十年に及んだが、一族の諫言に耳を傾けず佞臣の言を採用して古府を打ち壊し新府を築いた。

敵が蜂起し攻め寄せたが、一族は勝頼のために遂に干戈を動かさなかった。


 という内容であった。

 この度の戦乱と亡母の法要に何の関係があったのか、梅雪がどのような理屈でこの二つの事象を結びつけたかは我々には知り得ない。はっきり言ってしまえば突飛である。勝頼を裏切った梅雪の言い訳以外の何物でもない。梅雪は亡母の法要にかこつけて

(俺が悪かったのではない。全て勝頼が悪かったのだ)

 と後世に向け言い訳しているのである。見るに堪えない醜悪な態度といえよう。

 その梅雪も、本能寺の変でとばっちりを受けた。家康と共に堺見物に出張っていた最中、梅雪は本能寺における凶事発生を知った。事変の発生によって畿内の治安は急激に悪化したのであろう。身辺の危険を感じた両者はそれぞれの本拠地を目指して落ち延びてゆくことになるが、家康は伊賀越え、梅雪はそれよりは移動しやすい京都方面の街道を選んだ。

 梅雪にとってはこれが運の尽きであった。家康一行が苦心惨憺伊賀越えを成功させたのとは対照的に、落ち武者狩りの襲撃を繰り返し受けた梅雪は、宇治田原において一行もろとも賊に討ち果たされた。

 無事本領に帰還した家康は穴山領を安堵し、梅雪嫡男勝千代をその後継と定め武田宗家と定めたが、勝千代は子を成す前に夭折して穴山武田家の血脈は途絶えた。梅雪は生前、武田家譜代家臣穐山家の娘を一旦自らの養女として迎え入れ、その後家康の側室として進上している。家康とその間に生まれた五男を、家康は後に武田家に据えて武田信吉を名乗らせているが、これなどほとんどこじつけの類であって、甲斐武田家としての実体が伴うものではなかった。

 武田宗家との累代の交わりを恃んで、内心勝頼をないがしろにし続けてきた梅雪の目論見の、これが結末であった。

 次は土壇場で勝頼を裏切った小山田信茂である。もとより武勇の人で、頭の構造も梅雪のように複雑には出来ていなかった信茂が、事態の急迫を前に泥縄的に裏切りを思いついたところで、信長に受け容れられるはずがなかった。そしてそのことは小山田信茂自身もよく理解していたはずである。

 ものの史書によれば信茂は、勝頼滅亡後、彼を田野に追い詰めた手柄を以て信長に謁見を求めたが、かえって死罪を言い渡されて取り乱し、惑乱の中で頸を刎ねられたという。

 しかし小山田信茂ほどの人士が土壇場での裏切りが許されるものでないことなど百も承知だったはずである。彼自身がそういった行為を許す人物と思われないからだ。やはり信茂は、郡内の人々を戦乱から守ることを最優先に考えて、敢えて謀叛に踏み切ったものであろう。信長に謁見を求めたのは、自邸に籠もって織田勢の探索を受ければ自領が荒らされるからであって、もとから手柄など求めて出頭したものではなかったに違いない。死罪を申し付けられて取り乱した云々は、彼の裏切りが武田の滅亡に直結したことを恨まれての後世の付会ふかいであろう。信茂は自らの命を擲ったことによって、郡内を戦火から守ったものと評したい。

 この度の甲州征伐の発火点となった木曾義昌はどうだったか。彼は戦後、信長から忠節を賞されて、事前の約束どおり、本領安堵に加えて筑摩安曇二郡の加増を受け、更に手ずから目も眩むばかりの黄金を下賜された。信長の在所を退出する際は直々にその見送りを受けるなど、最大級の待遇を得ている。これは新府城に残していた人質を見捨ててまで織田家に忠節を尽くした義昌に対し、信長が精一杯報いたものであった。

 しかし木曾の平穏は長くは続かなかった。本能寺において発生した変事の余波が、遠く信州へも及んだのである。

 新しい支配者織田家は瓦解し、信濃の各所において武田旧臣が一斉に蜂起した。川中島四郡を支配した信長麾下森長可はそのような情勢に至った川中島の支配が困難であることをさとり、また信長の仇討ちをするために、川中島を捨てて美濃を目指した。木曾義昌は森長可が美濃を目指して西進してくるところ、合力するふりをして討ち取ってしまおうと企てたがこれは事前に長可に漏れ伝わっていた。長可は義昌の策略に気付かぬふりをして木曽福島城に立ち寄り、義昌は長可を討ち取ろうと城内に敢えてこれを招き入れた。長可はそこで麾下の精鋭に命じて義昌の子岩松丸を捕縛することに成功する。既に甲州征伐に伴って嫡男千太郎を殺されていた義昌は、岩松丸まで殺されるというわけにいかず、森長可の求めに従って美濃までの血路を拓くべくかえって利用される始末であった。義昌は新規領土における求心力をまったく失い、筑摩の拠点深志城には曾てこの地を治めていた小笠原長時の弟洞雪斎が旧臣の支持を得て入城する始末であった。

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