国破山河在(三)
木曾義昌が筑摩を失陥して以降、この地の支配者は目まぐるしく入れ替わった。洞雪斎に続いて、甲州征伐に際し旧小笠原家臣団の調略を担当した小笠原貞慶、その子秀政。次いで家康の
慶長六年(一六〇一)、諏方頼水が高島に復帰して諏訪藩が成立すると、筑摩郡小池郷は諏訪藩に編入された。なお頼水の父は諏方頼忠であり、伊豆守
武田でも小笠原でもなく諏方が、中信の筑摩を治めることになったのである。
この間、天正十六年(一五八八)には天下人豊臣秀吉によって郷村の人々から鑓、刀、弓鉄炮の類が取り上げられた。所謂刀狩令の布告である。
刀狩は折に触れて執行された。戦乱は人々の記憶に遠くなりつつあった。いつしか寛永なる元号が使われるようになり、その寛永も三年(一六二六)の半ばを過ぎようとしていた。
小池郷の人々は内田山の入山口に立ち尽くしていた。入山口には、山への
村人達は口々に
「これから冬を迎えるってのに、これじゃあ炭も薪も作れやしねえ」
「しようがねえずら。立て札なんぞ無視して、明日は山に乗り入れるしかねえ」
「内田の
「そんときゃあ、やるしかねえずら」
と
「内田の者とやらかすなど、滅多なことを口にするでない」
と言った。
老翁の背中は年相応に背中は丸まっていたし、顔貌に深い皺が刻まれてはいたが、放たれた言葉ははっきりとした、力強いものであった。
「でもなあ、薪も炭も、今から準備しなければ到底冬には間に合わんずら」
困り果てた村人の一人が言うと、三右衛門尉は
「公事に訴え出て解決すべし」
と決然、言い放った。
「庄屋様、公事に訴え出るなどと簡単げにおっしゃいますが、御武家様が山への入会のことなんぞで
「短慮を起こすでない。安心せよ。藩のお奉行は必ずこの訴えを取り上げてくださる。お奉行が取り上げてくださらなんだら諏方の殿様に訴え出ればよい。それだけのことだ」
「殿様に訴え出る?」
村の若者は、それこそ滅多なことを口にするな、とでも言いたげに鸚鵡返しに返したあと、
「藩のお殿様が、郷村の境目争いなどに首を突っ込むとは思えません。それよりも越訴に及んで成敗されることをこそ恐れます」
と、誰しもが心配するであろうことを口にした。実際、越訴は公儀の禁じるところであった。
だが草間三右衛門尉に動じる様子はない。
「成敗されることなどあるものか。境目争いは公儀に訴え出よと触れたのは藩のお奉行なのだ。もしお奉行が決裁せずに越訴に及んだとして、罰を下さるというのであればわしが村を代表して腹を切ってやる。それがわしの役目だ。そして、お奉行が決裁を避けた公事を決裁するのがお殿様の役目なのだ」
三右衛門尉はそこまで言うと、重い脚を引き摺るように床を立って、奥の納戸から何やら紙束を取り出してきた。
「見よ」
三右衛門尉はその場に、ばさりばさりと紙を広げた。ところどころ虫食いの穴が空いた古い紙であった。
「今から五十年も前のことだ。そのときもまた、内田郷と我等小池郷との間で内田山への入会を巡り争いが発生した。この紙束は、そのときに我等が訴え出た公事の経過をわしが記し、遺しておいたものだ」
村人達が見入る書面には、若かりし頃、武田の一軍役衆に過ぎなかった草間三右衛門尉が、
「んで、庄屋様。諏方のお奉行はどう決裁なされましたか」
村人の一人が、そこにこそ我等の興味はあるのだと言わんばかりに結論を急いた。だが草間三右衛門尉はその言葉を聞くや
「諏方のお奉行?」
といって、呵々と哄笑しはじめた。村人達はみな怪訝そうな表情である。
「すまん、すまん。諏方のお奉行などと思いもよらぬ話でこらえきれず、つい笑いがこぼれたものだ。ここにあるお奉行とは、武田のお奉行のことぞ」
「武田の?」
「左様。武田のお奉行だ」
草間三右衛門尉はそのように言うと、曾てこの地は甲斐に根を張っていた武田という大名が支配する土地だったこと、その時から内田郷と小池郷は幾たびか境目争いを起こしてきたこと、自分の父親の代にもそういった争いがあったらしいことを告げたあと、
「しかし結局武田のお奉行は決裁せられなんだ。窮した我等は直訴に及んだ。御屋形様が出掛けられておった湯治場まで乗り込んでな。しかし御屋形様は我等を無下にあしらうことはせなんだぞ。先例に則り我等の内田山への入会をその場でお認めになった。この判紙には、そこまでの経緯が書かれておるのだ」
と言った。
そこまで言うと、草間三右衛門尉は不意に遠い昔のことを思い出した。
父に添削を依頼した目安(訴状)は、結局加賀美の大坊によっておおかた書き直されたこと。
大坊はその際礼銭を求めなかっただけでなく、その後も結審までなにくれとなく三右衛門尉達を支えてくれたこと。
直訴の結果、武田勝頼の決裁によって小池郷士は内田山への
後年その勝頼を凶事が見舞い、草間三右衛門尉は恩義に報いるべく単身諏方上原の勝頼在所へ向かおうとしたこと。
それを次郎右衛門に力尽くで押し止められたこと。
その次郎右衛門も天寿を全うして今はいないこと。
父から受け継いだ鉄炮は、その戦乱をかいくぐってしばらくは自分の手許にあったが、幾度かの刀狩を経て、今や失われてしまっていることなどを思い出したのである。
それはあまりにも遠い昔の記憶であった。年老いた草間三右衛門尉は、一瞬のうちに甦ったこれら膨大な記憶のなかから、どれを抽出して村人達に伝えるべきか迷った。だがそれは本当に一瞬の出来事だった。
「御屋形様はな・・・・・・」
しばしの沈黙の後、三右衛門尉は切り出した。村人達は、三右衛門尉の言う御屋形様というのが、武田勝頼という名の、曾て日本中に勇名を轟かせた大名であることも知らずに黙って聞き入っていた。
「御屋形様はお忙しい御身ながらも、我等軍役衆の訴えに耳を傾けて下さった。あれから五十年の歳月が経った。今ではこの村でその公事のことを知るのもわしだけになってしもうた。五十年も昔の御屋形様が、我等の話に耳を傾けてくれたというのに、当代のお殿様が越訴に及んだとて罰を下さるなどということがあろうか。
試みに問うが、大人と子供ではどちらが賢い」
唐突な三右衛門尉の問いに、村人の中から
「大人です」
というこたえが聞こえた。
「左様、そのとおりだ。わしは時代が下れば人は賢くなるものだと信じておる。我等が武田の御屋形様に直訴してから五十年にもなろうというのに、今になって越訴はけしからん、死罪じゃというのであれば、大人が子供より阿呆になっておるということで、まったく辻褄の合わぬ話になる。わしはしたがって、そのようなことはないと信じておる。
しかし、越訴などという手段に訴え出るより先に、藩のお奉行は必ずや決裁して下さるであろう。そして、わしが書き記した先例に則り、お奉行は必ずや我等に、内田山への入会を認めて下さるであろう。安心して目安に訴え出るがよい」
三右衛門尉はそれだけ言うと目を閉じた。
そのころ、ようやく「甲陽軍鑑」なる軍記物が成立しようとしていた。今は侍としての身分を捨て帰農した草間三右衛門尉にとって、そこに書かれている内容はさほど興味を引くものでもなかった。
三右衛門尉にとって記憶の中にある武田の御屋形様、勝頼は、領民の訴えに耳を傾けて自らの縁者が敗訴になることを厭わず公平に裁許した、物静かな御屋形様というものであった。その姿を思い出した三右衛門尉はしかし、一抹の不安を感じた。
(時代が下れば人は賢くなるものだと信じておるが、これからあと、御屋形様のような殿様は現れるだろうか)
もしかしたら自分は、若いときに得難い体験をしたのではないか、あのとき直訴を聞き入れてくれた武田の御屋形様のような人は、時代が下ったからとてそうそう現れるものではないのかもしれぬ。
三右衛門尉は目の前に拡げた判紙を、大事そうに束ね始めた。それは、来るべき公事に備えて証文を大切に保管しておこうという意味以外に、もしかしたら時代は下っても大人が子供より阿呆になっているということもあるかもしれぬと不安になったその表情を、村人達から隠すためであった。
(完)
武田勝頼激闘録 @pip-erekiban
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