高遠城の戦い(二)

 五郎信盛は高遠城の奥の間へと赴いた。五郎信盛は松姫に言った。

「新府城へ退去せよ」

 五郎信盛の勧めに対し、松姫は強い眼差しを示しながらこたえた。

「この高遠城にて、心静かに信忠卿をお迎えいたします」

「ならん」

 信盛は松姫の在城の希望を拒否した。

「なぜです。親同士の決め事とはいえ幼きころよりお慕い申し上げた三位中将信忠卿に、ようやくお目通りかなおうというのです。私は一刻も早く信忠卿にお会いしたいのです。私はどこへも逃げず、この高遠城で信忠卿を待ちます」

 松姫は回りくどい言い方をしなかった。自らの希望を直截に口にして、なおも在城を望んだ。幼少のころより外交のための道具として扱われてきた松である。父信玄の都合で信忠と婚約し、これを事実上破談にしたのも信玄の都合によるものであった。そして今、勝頼の一方的な都合で、信忠に対する半ば人質のような扱いで高遠城へと配置された松である。人生の重要事項における決定権を否定され続けてきたという思いは誰よりも強かった。なので松は、最も信忠に近付くことができるこの機会を逃してはならないと、自分の希望するところを包み隠すことなく口にした。それは、自分の発言を相手の都合の良いように解釈される余地が寸分もない、はっきりとしたものの言い方であった。

 松の、この機会に賭ける強い意志を知らぬ信盛ではない。

「そなたのいうことはよく分かる。しかしな、この城には兄上が在城していたころの侍衆が多く籠もっておる。わしは城兵の助命と引き換えに腹を切るつもりだが・・・・・・」

 ここまでいうと松は

「そんな、切腹などと!」

 と声を上げたが、信盛はこれを制して

「腹を切るつもりだが、兄上に忠節を尽くしてきた侍衆が多く在城する高遠城のこと。飯田や大島のように、開城したとて信忠殿に穏便に城を引き渡すことができる保障はどこにもない。何が起こるか予想が出来ん。そなたの身を案ずればこそ、退去を求めておるのだ」

 と、その存念を述べた。高遠城では、血走った目を見開いて小山田備中守昌成、大学助昌貞兄弟が城中の侍衆にそこかしこの普請作事を命じ、牢人衆渡辺金大夫照は人を集めて気勢を上げているさなかであった。前髪も落とさぬ若衆、籠城衆の女房、女中衆までが、渡辺金大夫に弓或いは薙刀の指南を受けている。信盛の意向が那辺にあるかに関わらず、また信盛が敵を前にして如何に振る舞おうが、彼等高遠の衆は旧城主勝頼のために玉砕覚悟で戦うつもりのように見受けられた。信盛が城兵の助命と引き換えに切腹して果てたとしても、これら過激な一団が統制を失って激発することが危惧される不穏な空気が諸方に漲っていた。

 松に対して切腹を宣言した信盛であったが、このような城内の様子を見るにつけ、安易に切腹、開城という挙に及んで良いものか、改めて考えざるを得なかった。いずれにしても松をこのまま高遠城に残しておくわけにはいかない。信盛は渋る松をなんとしてでも新府城に退去させなければならなかった。

「迫り来る織田勢は数十万の大軍と聞いておる。それだけの人数に守られて、信忠は本営深く在陣しておるのだ。翻ってこの高遠の城を見よ。若衆、女中まで掻き集めても五六百が関の山だ。我等が心をひとつに挑み掛かったとしても、あれを破ることは不可能である。開城しようが玉砕覚悟で戦い抜こうが、高遠城の命運は既に定まったようなものだ。我等は信忠に肉迫も出来ず、信忠は高遠城を落とした余勢を駆って甲斐に押し寄せるであろう。そうなればそなたは新府城を落ち、何処か社寺に逃げ込むのだ。甲斐でなくとも良い。武蔵でも相模でも良い。安全な場所に逃げ込んでほとぼりが冷めるのを待つのだ。信忠がこの度のいくさで死ぬようなことは万に一つもないのだから、逃げた先で信忠の迎えを待つがよい。そうすることが・・・・・・」

 結局は最も早く信忠の許にたどり着ける方法だ、と信盛が続けようとすると、松はそれを遮った。

「私はそのようなことを言っているのではありません。恋い焦がれた信忠卿に、一刻も早く会いたい。それだけのことです。私はここで待ちます」

「開城に際して城に火を掛けようという者が必ず出てくる。そうなれば信忠と会うどころの話ではなくなる」

 信盛はそう言って、高遠城が既に危険な状態にあること、すぐにでもこの城を離れる必要があることを松に説いた。高遠城下を出処不明の火の手が包んだのはつい先日のことであった。敵方による放火か混乱を来した町衆による失火かは分からなかったが、これからこの城を襲うであろう混乱を想わせる事実であった。しかし松はなおも強い視線を曲げることなく

「そのときになってみなければ分かりません」

 と返した。

「くどい!」

「兄上こそ、くどうございます。何と言われようと私は残ります」

 両者の話し合いは感情に傾いて終わりが見えないものになりつつあった。そこへ

「お取込み中、失礼致します。普請のことで少々お話が」

 唐突に割って入ったのは、先ほどまで城中の普請作事を指揮しているものとばかり思っていた小山田大学助であった。城の防備に関して信盛の指揮伺しきうかがいに来たものと思われた。このために信盛は、松との問答を打ち切らなければならなくなった。

「あとでゆっくり話そう」

 そうだけ告げると、信盛は小山田大学助とともに慌ただしく奥の間を何処かへと出ていってしまったのであった。

 高遠城が信忠勢を目の前に置いて大変な喧噪に包まれている中、勝頼は太郎信勝をはじめ馬廻衆数名と共に塩尻峠を巡検していた。勝頼の許には、飯田城や大島城が戦わずして陥落したという情報がもたらされていた。下條信氏、小笠原信嶺のみならず、逍遙軒信綱までが城を捨てて遁走したという事実は、高遠城に籠めた武田五郎信盛も同様に、戦うことなく城を明け渡したり逃げ出すことが十分に有り得るということを物語っていた。勝頼はそのときに備え、この塩尻峠において信忠を迎撃すべく、実地調査をおこなっていた。いうまでもなくこの塩尻峠は、天文十七年(一五四八)に亡父信玄が晴信を称していたころ、信濃守護小笠原長時を追い落とした古戦場であった。このときの晴信は上田原において村上義清に大敗した直後であった。板垣駿河守信方と甘利備前守虎泰の両巨頭を失い――実は板垣駿河守は晴信によって戦死を装い謀殺されたものであったが――武田の退勢に乗じて、多勢を恃む油断もそのままに漫然と塩尻峠に布陣した小笠原長時に、典厩信繁を大将とする別働隊が襲いかかって、ほとんど一方的な勝利を得た晴信会心の軍略であった。

(今は、そのときに似ている)

 勝頼は自分が現在置かれている窮状が、上田原大敗後の父と同様であると考えた。そのことはかえって勝頼を奮い立たせた。

 下伊那の諸城の自落を得て、敵はほとんど損害を蒙ることなく嵩にかかって攻め寄せるであろう。知らず知らずのうちに慢心と油断が生じているはずだ。その間隙を衝き、父信玄がそうしたように、馬を操るに巧みな精鋭を選抜して敵陣深く斬り込むのだ。信玄は別働隊の指揮を典厩信繁に任せたが、勝頼は自らその陣頭に立つつもりであった。塩尻峠をくまなく巡検しながら、勝頼は信忠が陣所を置くであろう場所に達した。

 そのときである。雨が降り出した。丈の短い草が一面を覆う峠である。勝頼達が駆る軍馬の蹄が雨に濡れて柔らかくなった地をえぐる。

 夜半か、或いはこのような雨天か。

 いずれにしても天候を味方に付け、敵の目を盗みその懐に飛び込んで一気呵成に斬り込むのである。勝頼はひときわ厳重に守られた陣所を目敏く発見し、特に手練の一団を率いその陣幕を蹴破って斬り込み、具足を身にまとう暇もなく呆気にとられたようなまだ見ぬ信忠を、手鑓でひと突きに突っ殺す白昼夢を見た。濃尾の兵は恐慌を来し忽ち烏合の衆と化すであろう。勝頼は蜂起した叛逆者ごと他国の兇徒を信濃から一掃して、安土から弔い合戦に出張ってきた信長と、岐阜の城下あたりで雌雄を決するのだ。そこから先はどうなるか知れたものではない。だがこのとき勝頼は、塩尻峠に陣所を構える信忠を突っ殺し、無人の曠野を征くが如く岐阜まで一直線に突き進むところまでを、はっきりとその眼前に見ることが出来たのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る