高遠城の戦い(一)
敬って申す 祈願のこと
ここに不慮の逆臣出で来たって国家を悩ます。仍て勝頼運を天道に任せ、命を軽んじて敵陣に向かふ。然りといえども士卒利を得ざる間、その心まちまちたり。なんぞ木曾義昌そくばくの神慮をむなしくし、我が身の父母を捨てて奇兵を起こす。これ自ら母を害するなり。なかんづく勝頼累代十恩の
抑も勝頼いかでか悪心なからんや、思いの炎天に上がり、
右の大願成就ならば、勝頼我共に社檀御垣きたて、回廊建立の事。
敬って申す。
天正十年二月十九日 源勝頼内
後世の偽作とされた勝頼夫人による武田八幡神社宛願文である。冒頭に「この国の本主として武田の太郎と号せしりこの方、代々守り給ふ」とあって、勝頼正室であればわざわざ言及しないであろう慎重な問題にのっけから踏み込んでしかも錯誤を犯しているあたり、偽作とされるのも無理のない願文である。だがこれが偽作であろうとなかろうと、新府城にあって勝頼の武運を祈る
今まさに危機が迫る高遠城には、信盛とともに松姫も在城していた。高遠城に迫る織田信忠の婚約者である。もしかしたら信盛は、松姫もろとも城を信忠に差し出してしまうかもしれなかった。もはや一門譜代とて信用できない情勢であり、武田家の行く末を思う者であれば林でなくとも神仏に祈らずには到底いられなかったであろう。
その林にとって、大島城を接収した信忠勢が、同日中に自落した飯山城まで進み、高遠城を目の前にして停止したのは神仏の加護にほかならなかった。これまで抵抗らしい抵抗をまったく受けず、戦死者の一人も出していなかった信忠勢である。その気になれば一挙に雪崩れ込んで、高遠城を揉み潰すことも心次第だったにもかかわらず、はじめてその進軍が停止したのだ。だがこれは神仏の加護ではなかった。一気呵成に北上する信忠勢の鼻先を、勝頼が痛撃するのではないかと危惧した信長が、嫡男の身を案じて手綱を引いたのである。繰り返し述べてきたとおり、このたびの甲州征伐は信長にとって特別な意味合いを持つ戦いであった。信長は関東を代表する大名、武田家を滅ぼすことによって、足利家から家職たる征夷大将軍位を奪いその資格を得ようと目論んでいたのである。その先遣たる嫡男信忠が万が一勝頼相手に不覚を取るようなことになれば、官軍が朝敵に敗れたことになり、信忠のみならず信長の権威も地に堕ちることになるのだ。権威の失墜は朝廷にまで及び、朝廷の信長に対する信頼も同時に地に堕ちかねない。なので信長は、ともすれば武田家討伐の手柄欲しさに逸りがちの信忠を押し止めるため、老練の河尻与兵衛や滝川一益を遣って目付とし、急な進軍を一旦停止するように命じたのである。信忠勢が飯山で停止したのはそのためだった。
一方、手柄欲しさに猪突しているように見えた信忠も、高遠城の手前で軍勢を停止できたことに内心安堵していた。幼いころに婚約した松姫が、高遠に在城しているという情報を得ていたからであった。もとより信長嫡男として公私を厳格に区別してきた信忠である。戦前に信長に対して宣言したとおり、一旦高遠城攻略の采配を振り下ろしたならば、信忠は一切の手心を加えることなく一挙に高遠城を揉み潰してしまうつもりであった。そうなれば城方は窮して敵方の大将である信忠室松姫を、人質として殺してしまうかもしれなかったし、よしんば救出を試みたとしても敵城深く在城しているであろう松姫を味方が見つけ出し救い出すことなど余程の僥倖に恵まれなければかなうはずがなかった。だから信忠は、高遠城を目の前にして停止命令を受けたことに、外見上は
「父上はなにを考えておいでか」
などと
(松殿、これを機に早うお逃げ下され)
と祈っていたのである。
さて、一方の高遠城将武田五郎信盛のもとには、
「迫り来る織田勢は濃尾の衆を数十万も糾合した大軍である」
という噂が届いていた。
(俄に信じがたい数字ではあるが、覆しがたい兵力差であることは間違いない。降伏しても恥ではあるまい)
信盛の脳裏に、そのような考えが自然と浮かんだ。既に木曾義昌、小笠原信嶺は勝頼に叛旗を翻し、下條信氏、逍遙軒信綱は持ち城を捨てて遁走していた。いずれも武田の御一門衆、御親類衆と呼ばれた人々である。武田の柱石と思われていた人々が、率先して武田を裏切り、或いはろくな抵抗も示さず城を捨てた今、勝頼舎弟だからという以外に、自分が信忠に徹底抗戦しなければならない理由がどこにあるだろうか。自分は甲斐源氏武田家の血を引く者として、当然城を枕に
信盛は降伏を決意していた。その際に腹を切るつもりでいるが、自分が間もなく死ぬのだということに今ひとつ実感を抱くことが出来ない信盛にとって、ひとつだけはっきりと、これだけはやっておかなければならないということがあった。松姫を新府城まで退去させることであった。
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