高遠城の戦い(五)
高遠城大手門に使僧がひとり。
「三位中将信忠卿の御諚。開門されよ」
僧が呼ばわると、大手の軋む音が響いて門が開かれた。僧は本丸へと通されて城主五郎信盛に面謁した。信盛は使僧が持参した
信盛は小山田兄弟や諏方勝左衛門頼辰、渡辺金大夫等が集う広間に文を広げて見せた。
下伊那の諸城が戦いもせず自落したり降伏した経緯を鑑みれば、高遠城が逃げもせず一戦遂げる覚悟を示したことは賞賛に値する。しかし勝頼は既に上原を捨てて韮崎へと逃げ帰り、後詰は望めないであろう。もし高遠城が降伏して我等に忠節を尽くすというならば、黄金五十枚を下賜したうえに、望みの場所に所領を宛がおう
という内容であった。
「このような内容であるが、みなの意見を聞こう」
信盛が水を向けると、諸将口々に
「信忠は我等を見くびっておる」
「黄金や所領で忠魂を売り渡したりするものか」
「左様。木曾づれと同じにしてもらっては困る」
と息巻いて、降伏のこの字も出る様子がない。信盛はためしに
「たとえばこういうのはどうだ」
と切り出して
「今、武田を巡る情勢を鑑みるに、駿河は梅雪が謀叛致し、織田徳川に対する備えどころか、これら敵方に転じて、かえって韮崎をうかがう勢いである。信忠のいうとおり、残念ながら本国からの後詰は望めないであろう。しかしだからといって黄金や所領と引き換えに降伏しては、甲斐の武田は城を切り売りしたなどと後世の笑いものとなろう。わしはかかる恥辱をよしとしない。したがって・・・・・・」
とまで言うと、小山田備中守昌成が
「殿ひとり腹召されて城兵を助命しようというのでしょう」
と機先を制した。
「やはり、駄目か」
信盛は思わず口角を上げて言った。
「いかにもあなたが考えそうなことです。城を切り売りもせず、城兵にも犠牲を出さず、自分だけ腹を切って開城しようというのでしょう。良いわけがありません。我等この城に越してきたときから、勝頼公のために一命を擲つ覚悟は固まっておったものです。今になって、殿の腹ひとつで開城、退去など・・・・・・」
小山田備中守の言葉の終わりが失笑に紛れた。
「よかろう。もとよりそなた等が肯んずるとも思わなかった案だ。このうえは玉砕覚悟で死闘するのみ、だな」
信盛はそのように宣言した。
信盛は信忠からの使僧を広間に召し出した。使僧は広間に居並ぶ高遠城首脳の顔をぐるりと見渡した。ただならぬ雰囲気のため、その額にみるみる脂汗が浮き出た。信盛は使僧に対して問うた。
「そなたの
「寺僧でございます」
「軍使として両軍の間を往来するような立場か」
「違いますが、命じられてやむなく・・・・・・」
僧が言い訳めいたことを口にすると、諸将口々に
「黙れ!」
「己が生業を忘れて軍使に立つなど!」
と怒号を飛ばす。信盛はこれらの怒号を制して言った。
「命じられてなどというが、断りもせずのこのこ城に足を運んでは降伏を勧めるなど、神仏に仕える寺僧にあるまじき所業である。本来であれば殺されても文句を言える立場にないが、命ばかりは許してやろう。しかし他の手前もあるので鼻と耳は所望する。それ、やってしまえ」
信盛がそのようにいうと、傍らに控えていた旗本衆は数名がかりで寺僧を庭に引き出し、痛みに泣き叫ぶ僧の顔面から、両の耳介と鼻梁を削ぎ取ってしまった。僧は城中で最低限の止血の措置を施されて、大手から蹴り出された。僧は痛みに呻きながら信忠にことの経緯を復命するとともに、武田方から持たされた返書を提出した。返書には
降伏勧告の手紙を確かに拝見した。しかし我等は疾うの昔に勝頼公に命を捧げる覚悟こそ定まっているけれども、黄金や所領のために名を汚す覚悟を定めたおぼえはない。織田家は先代信玄のころより遺恨を含む怨敵であって、雪解けを迎えたらこちらから討って出て、積年の鬱憤を散じるつもりでいたが、そちらから出向いてきたということは、お互い同じ考えだったのだろう。先代以来鍛えに鍛えた業を披露する時宜を得て、降伏など笑止千万である。安心して攻め寄せられよ。
とあり、降伏勧告を一顧だにしない内容であった。信忠は、高遠城から松姫が脱出したか否かを確かめることも出来ないまま、開戦を決意しなければならなくなった。
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