野辺送り(二)

「御屋形様は、家康の中間ちゅうげんから届いた手紙にいたくご執心のようだ」

 山県三郎兵衛尉は旅装で立ち寄った三枝昌貞邸宅で、昌貞相手にそのように切り出した。

「事前に、昌景様に何かひと言でもご相談は・・・・・・」

「ない。先般の軍議にて唐突に知らされたものだ」

 昌景ほどの重臣に、何の根回しもなく突如弥四郎の企てが披露されたことは、異例中の異例であった。二人の間に沈黙が流れる。

「わしはな勘解由かげゆ

 昌景がようやく絞り出すように言った。

「わしはただ、御先代の御遺言を重んずればこそ、勝頼公をお止めしただけだったのだが・・・・・・」

「存じております。新君勝頼公が御出馬なさることを、快く思わぬ者が家中にあったこと。そういった者達の不満を躱すために勝頼公を押し止めて、宿老だけで出陣せんと決意なされた昌景様の苦衷も」

 三枝昌貞は二年前の遠州森における敗戦を思い出していた。あのとき家康に囲まれた長篠城には、長篠菅沼家に加えて甲信の国衆が在番していた。勝頼はこれを救おうと後詰を決意したのだが、昌景は先代信玄の死から半年も経ないうちから勝頼がいくさに打って出ることに反対した。それは単に、先代信玄の遺言に盲目的に従うという意図で反対したものではなかった。むしろ、そういった先代の遺言を金科玉条として、無条件に遵守することを目的とする内藤修理亮昌秀等の一部による勝頼批判を防ぐ目的があって反対したものであった。勝頼に出馬を取りやめさせ、且つ危機に陥った前線の城を救い出すためには、山県等宿老、武田の一門衆が率先して出陣するよりほかなかった。しかし当主を欠いた甲軍は、全体の連携を欠き、結果として武田は徳川との開戦以来はじめて家康の軍に敗れたのである。宿老たる山県三郎兵衛尉昌景は全軍の責任者と見なされ、戦後勝頼の不興を買った。以来軍議でも遠ざけられつつある。

 不意に、昌景が遠い目をしながら呟いた。

「負けて良いいくさなどないものだ。いくさにはなんとしても勝たねばならぬというのはまことであった」

 勝頼がことあるごとに口にする言葉が、昌景の口からこぼれた。

 信玄の三回忌法要に先立ち、勝頼は信玄位牌を高野山における武田家の宿坊として定められていた成慶院じょうけいいんへ奉納する役目を昌景に与えていた。昌景は出発に先立ち、旅装にて府第ふてい(躑躅ヶ崎館)の勝頼にその旨申告した後、娘婿である三枝昌貞邸に立ち寄ったのだ。

「父との浅からぬ縁を慮り、特別に高野山への使者に任ずる」

 勝頼から冷たくもそのように告げられたとき、昌景は身じろぎもせず、なんともいえない寂しさを噛みしめていた。そのような言い方をされるくらいなら、いっそのこと

「そなたは宿老の立場にありながら家康相手に負けいくさを演じた。軍議への出席はまかりならん。位牌法要にでも出張っておれ」

 とばっさり切って捨ててもらった方がましであった。

 信玄との浅からぬ縁を慮ってとは言い条、高野山までの危険な道程を考えると、この役目、どうしても昌景のような重臣が担わねばならぬものではなく、異例の人選といえた。高野山が所在する紀伊へと抜けようと思えば、陸路では徳川或いは織田の領国を通行しなければならない。

 所持品は信玄位牌である。

 依然として信玄の三年秘喪の遺言は有効であり、もしこういった敵国の領土内で山賊に出会でくわしたり、関所で荷改めに引っ掛かれば、その位牌の存在から、信玄の死は確定的事実として白日の下にさらされることになるであろう。陸路は論外といえた。

 残された途は海路を使い、織田徳川領国を一足飛びに飛び越える方法である。陸路のような心配事はないが、そのかわり海は全行程が難所であった。事実、海流に流されたり風に吹かれたりして、太洋に放り出されたまま帰らぬ海賊衆や漁村の者は多かった。

 ころは二月であった。北の海とは異なり、真冬でも南の海は凪いでいた。頃合ではあったが絶対に安全だと言い切ることも出来ない。これが海路の恐ろしさであった。

 しかし昌景はその恐ろしさを、本当に恐ろしいものだとは思わなくなっていた。旧主の位牌がそこに在るということだけで、昌景は勇気づけられた。たとえ船が遭難したとしても、信玄の位牌は昌景とともに茫漠たる大海を永遠に漂い続けることになるだけの話であった。昌景は大船の甲板で、信玄の位牌を抱きながらかつえ、渇き、朽ちて果てていく自分の姿を想像した。それは新主勝頼に疎んじられ、武田の中枢から遠ざけられつつある我が身を自覚する昌景にとって、悪い光景ではなかった。

(もしそうなれば、位牌を抱き、御屋形様の魂ととっくり語り合いながら、冥府へと旅立つだけの話だ)

 昌景はそう思い直すと、なにか心の中のもやが急に晴れ渡ったような気がしてきた。昌景は目の前で沈痛の面持ちを見せる昌貞に、思わず

「わしは太洋に漂いながら、御先代の御位牌を胸に、とっくり語らい合うつもりだ」

 と言いそうになった。言いそうになったが寸手のところでこれをこらえた。そのようなことを口にすれば、昌貞は昌景の身を心配して、高野山行きの任を別の者にするよう勝頼に願い出る恐れがあったからだ。昌景はどこか晴れやかになったであろう自分の表情を悟られぬよう、昌貞邸宅をあとにしたのであった。

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