元服と初陣(一)
長老に先を越されるのではないかと焦る四郎であったが、たとえそのような焦りもなく、震えながら元服や初陣のときを待っていたとしても、時間は先へと流れていくものである。
四郎は元服を迎えた。永禄五年(一五六二)六月のことと考えられる。
四郎は上伊那郡司として高遠城に入るよう命じられるとともに、
「諏方四郎勝頼」
の名乗りを与えられた。
勝頼は、自身が諏方姓を名乗ることについてはなにも違和感を持たなかった。諏方頼重娘を母に持ち、幼少の頃に高遠諏方頼継に入嗣した勝頼にとって、そのことは既定路線であった。
武田家においては、一門でありながら他家の姓を名乗った例は他にもある。天文二十年(一五五一)二月一日に吉田武田家の名跡を継承した典厩信繁がそうであった。これは天文十九年十二月に晴信嫡男太郎義信が元服したことを受け、信繁が吉田姓を名乗ることによって家督継承権の放棄を宣言したものと解されている。後年武田信繁として知られることとなる信玄実弟は、在世中は「吉田信繁」を名乗っていたというわけである。
勝頼は氏姓よりも、父から与えられた「勝頼」という名乗りに自分の置かれた立場役割を否応なく自覚させられる思いであった。
というのは、「頼」字はいうまでもなく諏方家の通字である。勝頼は諏方の人間であると自他ともに認めているのであるから「頼」字を自身の名に使用することに異論はないとしても、それでは武田家の通字たる「信」字は何故勝頼の名から除外されたのであろうか。
これを勝頼の場合に当てはめて考えると、「信」字を使用して名乗りを挙げた場合、「信頼」または「頼信」となる。「諏方信頼」とした場合、武田家を諏方家より上位に置く意図が明確となろう。事実はそのとおりの序列なのであるが、天文十一年(一五四二)に、晴信が諏方頼重頼高兄弟に切腹を命じたのは、諏方家が武田諏方の同盟条項に違犯した責任をこの兄弟に押し付けて、諏方家そのものについては免責する、という意図の許におこなわれた処断であった。諏方家は武田家と対等の同盟関係を取り結ぶ信濃国衆のひとつである、というのが建前上の関係だったわけである。
このような関係が成立している以上、武田家を諏方家より上位と位置づけている「
では、これを逆転させた「頼信」はどうか。
先述のとおり武田家は、一度は諏方家を軍事的に屈服させている。その家の通字を、武田家の通字より上位に持っていくような名乗りを庶子に与えれば、武田家の求心力を自ら損なうも同じ愚行であった。他への手前、これもおおっぴらに名乗ることの出来るものではなかっただろう。
これとは好対照なのが武田家と仁科家の関係である。
天文十七年(一五四八)、上田原で村上義清に大敗した武田家に対し、失地回復を狙う小笠原長時が信濃諸衆を率いて戦いを挑んできた。このとき、戦後の領地配分のことで安曇国人仁科道外が長時と袂を分かち、武田晴信は塩尻峠にて小笠原長時を散々に撃ち破った経緯があった。後年仁科家は武田家と干戈を交えることなく服属し、武田家は境目の国衆としてこれを重んじた。信玄は後に五男五郎盛信を仁科家に入嗣させているが、名乗りは仁科家通字たる「盛」字を上位に配置している。これなど仁科家を武田家より上位に見做した、というよりは、自主的に服属した仁科家を重んじる意図を、五男の名乗りを通じて内外に明示した、といった方が正しいだろう。
兎も角も、順序がどうであれ四郎の名乗りに「信」字は使いづらいと考えたのか、信玄は自らの幼名「勝千代」から「勝」字を取り、「勝頼」の名を与えたと考えられる。これであれば、信玄は確かに諏方家との戦争で勝利しているのであるから、その上位に立つことに周囲からも異論はなく、また「勝」字は通字ではなく家を背負わぬ字であるから、家同士の関係を考慮しなくて済むという利点があった。信玄個人としては諏方家より上位に立っているが、その関係性が両家の支配被支配関係を表すものではない、という理屈である。
このような事情から「勝頼」の名が自ずと決定されたのであろう。
余談ながら、信玄俗名晴信から「晴」字を取って与えることは、将軍偏諱を他人に与えることになり非常識と見做されるから、「晴頼」は除外である。
武田家譜代重臣に好んで与えられた「昌」字は信玄曾祖父信昌からの偏諱と考えられている。この字が多用された事情は、放伐対象たる父信虎からの「虎」字の偏諱が、信玄期には差し控えられた結果と思われる。
ただ、「昌」字は当時既にこの世を去って随分経っていた武田信昌個人よりも、武田家を強く連想させる字であった。したがって「信」字と同じ事情から使用を見送られたものと思われる。
以上のとおり勝頼という名前からは、武田家と諏方家の恒久的な支配被支配関係は意図的に排除されていた。それは、信玄個人と諏方家との短期的な上下関係から撰ばれた名であった。
勝頼が、諏方惣領家ではなく高遠諏方家を継承した経緯を思い出してほしい。これには二つの意味があったと記した。勝頼の諏方惣領家継承によって、諏方衆の謀叛を信玄が恐れたこと。現実に四郎誕生直後に、諏方満隆が抗議にも似た切腹をして果てている。
いまひとつは、惣領家復帰を望む高遠諏方家が、勝頼の入嗣を得てそのことを期待し、勝頼に忠節を尽くすと考えられたためであった。
結果的に勝頼は諏方惣領家からは鬼子扱いされ、高遠諏方家からは実現可能性がほぼ皆無である惣領家復帰を期待される、という困難な立場に立たされることになった。無論信玄には高遠諏方家を惣領家に復帰させる気など更々なかったし、その名「勝頼」が選定された経緯も、縷々陳べてきたようにまるで妥協の産物だった。
そして、そのような自分の立場が理解できない勝頼ではない。信玄から聊爾者と叱られた勝頼であったが、母於福がそうだったように、元来極めて怜悧な頭脳の持ち主であった。自分を取り巻く様々な要素に逐一感情を波立たせてるようなことがない。勝頼にとってそのようなことはどうでも良いことであった。勝頼は自分の本質を冷静に見極めていた。
(俺は武士だ。武士はいくさに勝たねばならん。負けて良いいくさなどない)
それが勝頼の辿り着いた結論であった。
(勝つより他になし)
そのように思い至ると、妥協の産物でしかなかったはずの自分の名乗りが、急に大きな意味を持ち始めたように、勝頼は思ったのであった。
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