高天神城陥落(一)

 安土城に招致され広間にひれ伏しながら、父の着座を待つ源三郎の脳裡に、父に甲江和与を願う様々な台詞が浮かんだ。ひれ伏して畳の目しか眼に入っていない源三郎の耳に、襖の開く音と無遠慮な足音、それに続いて衣擦れの音が聞こえた。

おもてを上げよ」

 甲高いが威厳に満ちた声に源三郎が顔を上げると、そこには初めて見る父信長の姿があった。これまで数多の大小名を滅ぼし、城塞に籠もる人々を鏖殺して、将軍義昭を京都から追放した父がどのような形をしているのか、様々に想像を巡らせていた源三郎であったが、初めて見た信長の顔は、彼が想像していたような、骨太髭もじゃの荒大将とはほど遠いものであった。髭は薄く、全体的に下方に引っ張られたようで間延びした印象すらある顔であった。どこか滑稽にも見える父の顔であったが、源三郎は

「源三郎でございます。本日は御父上にお目通りかない、恐悦至極に存じます」

 と型どおりの挨拶を口にして以降は、あらかじめ心に決めていたような言葉を発することが出来なかった。上座に座るこの織田信長という人物が、今までにこうやって面会してきた人数は数え切れないほど多かったに違いない。信長を前にひれ伏した人々は、信長に心服してひれ伏したのかもしれないし、面従腹背のともがらだったのかもしれない。信長の前でこのようにひれ伏したであろうけれども、後になって信長に弓を引いた人々のことを源三郎は噂で聞いて知っていた。淺井長政や松永弾正、荒木村重等がそうであった。一度は自らに服属しひれ伏した人物にたびたび裏切られてきた信長という人物が、こういった面会の場において

「この者は自分を裏切るか裏切らないか」

 と品を定めるようにまじまじと観察することは当然のことといえた。源三郎はそのような信長の視線にされ口籠もり、甲江和与を口にすることが出来なかったのだ。

「大きくなったな。息災であったか」

 信長の口が突如開いた。それは源三郎にとっては本当に突然の問いかけであり、ぼんやりと上のような考えを巡らせていた源三郎は、虚を突かれたために、考えていた台詞を口にすることも出来ず

「はい」

 と短くこたえるより他になかった。

「安土城下に屋敷をひとつあてがう。本来は城主として遇するべきであろうが、その件は逐って沙汰する。本日は大義であった」

 信長はこれ以上お前と話すことはないといわんばかりに告げると、再びひれ伏した源三郎を尻目に奥へと去って行った。源三郎にとっての初めての父子対面は、信忠との面会と同様に儀式の範囲を出ることなく、いともあっさりと終了した。信長に謁した源三郎は、自分が勝頼から託された甲江和与の口利きという任務が、実はとんでもなく困難で、実現可能性がほとんどない性質のものであるということを、このとき否応なく思い知らされたのであった。よくよく考えてみれば、七年も武田の許で軟禁されてきた自分が、どういう目的で織田家に返されてきたか、信長が理解していないはずがなかった。信長にとって、源三郎が武田家の赦免を願い出るという任務を帯びていることなど既にお見通しの事実なのであって、久々の父子再会を、情を絡めることもなく信長があっさり切り上げたのも、源三郎の口から出るであろう甲江和与交渉の口添えを煩わしいと思ったからに違いない、と源三郎は考えた。そしてそのことを裏付けるように、信長は源三郎に屋敷をひとつあてがって以降はいつまで経っても城代に任じようとはしなかったし、二人きりで面会するということもなかった。

 一方で信長は、武田或いは上杉との取次を担当していた菅屋長頼に命じて

「甲江和与成立間近」

 という風説を北陸方面に流している。この風説は信長の狙いどおり越後の上杉景勝の耳に伝わった。景勝は勝頼が自身を出し抜いて信長との和睦交渉に動いていることを書面で以て抗議した。景勝からの抗議に接した勝頼であったが、信長との和睦が成立間近であるという噂が虚説であることは、勝頼自身がよく知っていた。源三郎が織田領国に到着してから後、信長より


御坊丸(源三郎の幼名)はこちらから内々に迎えを寄越そうと思っていたが、そちらから返されたことは良い分別である。


 という手紙が送られてきたからである。文中、和睦交渉云々については一切触れられていないばかりか、宛名は月の下、日付と並んだ高さから書き出され、しかも「武田四郎殿へ」とする、書札礼上極めて尊大な形式で手紙が送られてきた。本来大名同士で書面の遣り取りをおこなう場合、宛名は「殿」で止めるべきところ、殊更「殿へ」と書き送ることは、たとえ敵対する大名同士であっても極めて異例、儀礼を無視した文面で、このことから、少なくとも信長には武田と和睦するつもりがないことは明らかであった。

 佐竹義重との取次を担う跡部勝資は、信長から、かかる手紙を得て焦った。これでは源三郎の身柄を織田家に返しただけに終わってしまい、武田の利となるところが全くないからだ。外交交渉上極めて重大な失態といって良い。勝資は早速義重に宛てて問い合わせの使者を送った。すなわち、源三郎を相模守信豊の婿にするという約束を織田家と取り交わしてからその身柄を返したのかどうかを問い合わせるためであった。無論、甲江和与に成立の見込みがないことなど百も承知の義重はそのようなまどろっこしい交渉を経ず、ただ源三郎を返還して信長に恩を売ることだけが目的だったので、早急にその身柄を織田家に送り返しただけであった。一応形ばかりの武田家赦免願いを附しはしたが、それは勝頼に対して義理を果たすという以上の意味を持たないものであり、案の定信長によって黙殺されてしまった。

「要らぬ策謀を巡らせおって」

 勝頼は佐竹義重が条件の履行を果たさず、さっさと源三郎の身柄を織田家に返してしまったことに激怒した。勝頼の怒りに接して、今回の交渉に深く携わっていた跡部勝資はその怒りが自分に対して向けられているものの如く恐懼した。実際佐竹との交渉担当だった跡部勝資に対する苛立ちが、勝頼にはあった。跡部は勝頼の怒りを代弁するように、義重に宛てて手紙を遣った。


貴国が不要な策を巡らせたために越後が当方に不信を抱き、弁明に時間を要したので関東出兵が遅れた。


 とする内容であった。佐竹義重が武田家に対して最も求めていた関東出兵を疎かにすることで、義重を揺さぶる意図に基づく手紙であった。同じように跡部は、景勝に宛てても


源三郎を織田家に返したのは事実だが、これは佐竹が返したもので当方は与り知らないことであった。信長との交渉は何も進んでおらず、取り立てて貴国に報せるようなこともなかったので連絡しなかっただけのことである。ところで貴国も独自に信長との和睦交渉をおこなっているとの噂もあるが、凡下の惑説として当家はまともに取り上げていない。


 とする手紙を書き送っている。同盟国同士であるが、結局は自国最優先の思惑に基づいて締結された同盟であり、水面下では互いに腹の探り合いをしていたのである。

 信長との和睦交渉を断念せざるを得なかった勝頼であったが、それでも織田家との和睦を諦めきれず、今度は岐阜に滞在して武田とのつながりも強かった臨済宗妙心寺派南化玄興なんかげんこうを通じて、織田家惣領信忠との和睦を目指している。

 先般、富士大宮の大杉から煙が立ち上る、という怪異に接して勝頼が家中衆に対し

「御旗楯無に誓って、信長風情には決して屈服しない」

 と宣言したことを勝頼自身忘れてはいなかった。しかし勝頼本人がそのように考えていることと、その方針に家臣団が従ってくれることはまた別問題であった。織田家と国境を接する木曾義昌、そして家康、氏政と対峙する穴山陸奥守信君等からは、たびたび緊迫する国境付近の状況が勝頼の許に伝えられていたのである。特に木曾の動向は武田にとって死命を決するといえるほど重要であった。もし木曾が織田勢によって抜かれるようなことになれば、戦禍は燎原の火の如く広がって信濃を一面の焼け野原にしてしまうであろう。勝頼はかかる惨禍を容易に想像することが出来た。そのことを考えると、信長が蹴ったからとて、簡単に織田家との和睦を諦めるというわけにはいかなかった。

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