決破の顛末(二)
内田衆は早速地頭桃井将監の名を挙げて点札掲示の正当性について主張した。訴訟を自分たちの有利に導こうとするならば当然の法廷戦術と考えられた。
櫻井右衛門尉は次に、小池衆に対して
「内田郷の者はこのように申しておるが反論はあるか」
と尋ねた。
小池郷側は先に内田郷の三名がめいめいに主張して叱られた経緯を眼前に見ていたのでそのような挙に及ばず、公事に訴えかけることを提案した三右衛門尉が当然代表者として意見を述べるべきであろうという暗黙の合意のもと、草間三右衛門尉がその存念を主張した。
「内田山は内田の名を冠してはおりますが、それは内田山が内田郷に属するからそのように呼ばれているのだという証拠を我等は知りません。もしそのようなものがあったとしても、もとより我等は内田山の帰属を内田郷と争っているものではなく、これを内田郷から奪い取ろうなどという存念に基づいて公事に及んだものではございません。内田郷の人々にはこれまでどおり山に入って木々を採る権利があると考えております。それは我等とて同様であり、熊沢を境としてこれまで慣例として認められてきた
と述べた。
櫻井右衛門尉は内田側と小池側の主張を交互に訊いていった。
「内田山が内田郷に属する山であると示すことは出来るか」
「その名でございます」
内田郷の代表者はそのようにこたえた。
「内田山という名が特別珍しいものとも思われぬ。そのような主張をするのであれば日本国中の内田山が内田郷に属するものと判断しなければならなくなる。無理筋であろう。他にもっとこう、安堵状が遺っておるとか、そういったものはないのか」
櫻井右衛門尉が重ねて訊ねると、内田郷側は
「あ、いや、そのようなものはございません」
と口籠もった。
櫻井右衛門尉は小池衆に問うた。
「それでは小池郷にも問うが、内田山への入会を許す文書等の証拠はあるか」
「文書はございません。ただ、これまで内田山へは熊沢と称する沢を境として、入会を認められてきたという慣例だけでございます」
草間三右衛門尉には、無理のある主張をするつもりも、ないものをあるように虚言するつもりも最初からなかった。徹頭徹尾、これまで認められてきた慣例をこれからも認めるように求めるつもりでいた。
双方からひととおりの主張を訊いた御旗本武者奉行二名は御料理の間を出て奥へと引っ込んでいった。その主張を吟味して決裁を下すためであった。訴訟当事者を御料理の間に残して引っ込んだ櫻井右衛門尉と今井新左衛門は、困ったように眉間の縦皺を深くして談合していた。
櫻井右衛門尉は
「双方の主張を聞いて、今井殿ははどう考えられますか。正直それがしには見当付きかねます」
と今井新左衛門に訊ねた。
今井は言った。
「内田の主張には無理があるように思われる」
今井は続けて、もし小池衆に内田山への入会を禁じるならば、小池衆に対して内田山に代わる入会地を定めてやらなければならなくなるだろう。しかしそのような地もなく、強いてそういった行為に及べば、既に代替地を領している地頭との間でまたぞろ紛争が起こることは避けがたい。内田郷の主張を認めれば領内に不要な境目争いが頻発しかねないので小池郷の既得権を認めるべきである、と述べた。
「やはりそう考えられるますか。しかし、ことはそう簡単ではございません」
櫻井右衛門尉は点札の掲示者が桃井将監であることを気にかけていた。武田の一門衆だからである。
談合する二人は、御料理の間に残してきた両郷の人々を差し置いて、まるで彼等自身が訴訟当事者に見えるほどであった。
「やむを得ん。今日の決裁は避けよう」
悩んだ挙げ句、今井新左衛門はそのように言った。
「決裁を避ける? して、如何なさるか」
櫻井右衛門尉の驚きに対して今井新左衛門は続けた。
「我等が決裁することを避けるという意味だ。そうすることによって公事は持ち越しとなろう。次の担当者には難しい問題をそのまま引き渡すことになるので心苦しいが、これから先、人を替えたからといって我等同様に他の奉行がこの公事に判断を下すことができる問題とも思われぬ。公事はやがて御屋形様の許に持ち込まれるであろう。御一門相手の公事を決裁できるのは、結局御屋形様しかないということだ」
櫻井右衛門尉は言った。
「双方の訴えは聞き届けた。これより吟味に及び、明日改めて沙汰する。本日同様辰の刻に参じよ。双方一旦下がられるがよい」
即日決裁を仰げるものと考えていた両郷の人々は拍子抜けして府第の門を出るより他なかった。
前日に引き続き、今度は担当者の一人を御鑓奉行安西平左衛門尉に替えて、今井新左衛門との両名の前で府第御弓の間において決破が行われた。
この席でも、内田郷側は
「点札を掲示したのは地頭の桃井様の存念である」
と地頭の権威を主張し、小池郷側は
「山を奪うつもりはなく、既得権を主張しているに過ぎない」
と噛み合わない主張を繰り返すのみで決破は全く進捗せず、奉行も有効な判断を下すことが出来なかった。
困り果てた奉行衆は桃井将監に対して
「小池郷に対し入会地への乗り入れを禁じたため難渋している」
と悲鳴交じりの申し入れをおこなった。
これは地頭主導によって問題を解決することを暗に促しての申し入れであったが、桃井将監からは
「内田郷は御先代(信玄)より賜った我が知行地であり、そのような公事に発展すること自体が不愉快だ」
との返事を得ただけに終わった。
これは公事担当の奉行に対する恫喝と受け取られ、彼等は決裁に対していよいよ消極的になった。
二日に及んだ決破に結論を見ることなく十月も末日を迎えた小池郷の人々は、滞在費が払底したこともあって、今井新左衛門に対し
「一旦小池郷へと引き上げます」
と告げて、空しく帰郷の途に就いた。
小池郷への道中、塩尻の峠において草間三右衛門尉はちらりちらりと降る雪のなか歩を進めた。人々が恐れる冬が遂にやってきたのであった。
(ここで諦めてはいかん。諦めてなるものか)
草間三右衛門尉は消沈する次郎右衛門、次郎兵衛兄弟の先頭を歩きながら、そのように固く心に誓ったのであった。
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