義信廃嫡(三)

 永禄十年(一五六七)八月、二百三十余名の集う信州岡城の大広間は大変な熱気に包まれていた。信玄の命令により甲信上州の諸侍のほとんどがここに召集されたのである。例外は木曾谷の領主木曾義昌、下伊那郡吉岡城主下條伊豆守、穴山玄蕃頭信君くらいなものであった。

 これだけの人数が集えば喧噪も大変なものであった。それを鎮めようと、山県三郎兵衛尉昌景が人々の前に罷り出る。

 なお、山県昌景は旧名を飯冨昌景といい、かの飯冨兵部少輔虎昌の弟である。前述のとおり兄の謀叛の企てを信玄に披露したことにより手柄を褒賞され、謀叛人飯冨の姓を捨て、いまは断絶していた山県の名跡を与えられていた。

 その昌景が大声を張り上げる。

「各々方、お静かに、お静かに」

 人々の視線が上座を向く。

 信玄の姿はそこにはなかったが、山県三郎兵衛尉昌景の他に跡部大炊助勝資、淺利右馬助信種、原隼人佑昌胤等が最前列に立ちながら一座を見渡していた。

「本日お集まりいただいた主旨は、来たるべき越後との合戦に臨んで、家中の不届者と徒党を組まず、御屋形様に忠節を誓う旨、起請文をしたためていただくためでござる」

 昌景は、熊野牛頭宝印くまのごおうほういんを人々に示しながら叫ぶように説明した。これは牛王紙ごおうしとも呼ばれる特殊な紙で、あらかじめ八咫烏やたがらすの墨印が押捺されたものである。起請文を認める際に使用される紙で、牛王紙に認めた誓約を破れば神罰を蒙らねばならないと広く信じられていた。

 牛王紙を目の前に示され、その意味を知る人々の間からどよめきが上がる。

「各々の本貫地ごとに奉行を定めております。これよりその割り振りと、起請文を認めていただく場所を申し上げるので、ようく聞いておくように」

 昌景は汗みどろになりながら奉行と起請文作成場所の割り振りを発表した。

「甲斐衆はこのまま大広間に居残りそれがしのもとに参集、北信の衆は本丸表御殿に移動し原隼人佑殿のもとに、伊奈衆は御台所曲輪に移動し跡部大炊助殿のもとに、上野衆は二の丸御殿に移動し淺利右馬助殿のもとにそれぞれ参集すること。起請文の例文はそれぞれの奉行が持っているのでよく見て誤りのないよう認めること。人により例文が異なる場合があるのでよく確かめること。何か質問は」

 昌景の言葉に、ひとりの侍が挙手して尋ねた。

「起請文を認めることにもとより異存はございませんが、集めた起請文は何処に奉納なされるか」

 この問いに対し昌景が

「下之郷大明神に奉納致し申す」

 とこたえたことにより、またぞろどよめきが諸人の口をついて出た。

 近世に至り、生島足島神社と呼ばれるようになった下之郷大明神といえば、生島大神いくしまのおおかみ足島大神たるしまのおおかみを主祭神として祀り、日本総鎮守として皇室からも崇敬を集める名神大社である。起請文徴収に賭ける信玄の本気度が自ずと窺われるというものであった。

 昌景の説明を聞き終えるや、二百を超える人々が指定された場所に向けて一斉に動き出した。いうまでもなく指定された場所に再度集合して、起請文を認めるためであった。


 このとき武田分国の諸侍から徴収された起請文は、昌景があらかじめ説明したとおり下之郷大明神に奉納された。現在、武田家臣団起請文として生島足島神社に八十三通が現存する一連の古文書群がそれである。その形式は、信玄に対し忠節を誓う前書きと、誓約を破った場合は神罰を蒙ったとしてもこれを甘受する後書きとで構成されており、裏面に誓約者の署名、花押、血判が捺されているというものである。誓約者は二百三十七名にも及んでおり、全体の作業は一日で終了しなかったらしく、起請文作成日は八月七日、八日の二日間にまたがっている。この起請文徴収が、あるしゅ武田家中における一大事業だったことを窺わせる日付である。

 このころ義信の謀叛発覚から二年が経過しようとしていた。その二年の間に義信派と目されていた家中衆の粛清は進み、しかも義信の幽閉が解かれない状況が続く中、口にこそ出さなかったがその廃嫡は時間の問題であると諸人をして自ずと認識される時節だったはずである。そのような折に集められた起請文の意味を理解しない人々ではなかっただろう。義信廃嫡に先立つ家中引き締めを図る目的で、これほど大量の起請文が提出されたに相違なかった。

 果たして同年十月十九日、義信の死と廃嫡が正式に公表された。

 織田信長が岐阜に入り天下布武の印判を用いはじめたのはまさにこのとき(永禄十年八月、一五六七)のことである。この印判の使用は、「矢島公方」足利義秋を奉じて武力により入京を果たす旨の宣言であった。これと敵対するということは足利将軍家との戦争に家運を賭けるということと同義であり、累代甲斐守護職を公儀から賜る武田家の立場としては、社会常識から見ても有り得ない話であった。したがって対信長強硬派であった義信を廃嫡することは信玄にとってやむを得ない決断であった。

 こうなった以上、多大な犠牲を払いながらも決定した親信長方針を最後まで堅持することが、武田家にとっての第二第三の悲劇を防ぐたったひとつの方法だったはずである。

 兄の死を知った勝頼は、父信玄が疾うに親信長方針を心に決めており、その方針が今後にわたって堅持され続けるものと信じ切っていた。義信廃嫡という断腸の決断をした以上、父がその方針を覆すことなど勝頼は一切信じなかったのであった。

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