長篠の戦い(三)

 どうやら二万七千人を越え、自軍に対し遥かに優勢らしい信長の後詰を向こうに回して、それでもこのまま一戦交えるか、それとも退くか。もとより決戦を求めて出張ってきた勝頼であったが、軍議に先立ち、一瞬迷いが生じた。

 おそらくこのまま長篠城に対する攻勢を継続すれば、城の運命は一両日中には決するであろう。それを以てこのたびの戦役における戦果とし、我が方に対し優勢と思われる敵野戦軍との決戦を回避することは、有力な選択肢のひとつであった。

 しかし、である。

 如何に武田が大国とはいえ、織田領国と比較すれば住まう人の数は遙かに少なかった。信長は畿内の武田の同盟国を次々と討ち滅ぼしている時節でもあった。決戦を回避し信長を無傷で畿内に帰せば、信長はきっと六角承禎や石山本願寺、三好康長などの武田家と同盟を取り結ぶ諸国の掃討に取り掛かるに違いなかった。かかる事態をこのまま拱手傍観すれば、彼我の国力差はいよいよ覆しがたいものになるだろうという危機感を強く持つ勝頼でもあった。

 いずれは信長に対し一撃を加えなければならないのだ。今がその有効な最後の機会であるかのように、勝頼には思われた。もし次に戦場で信長と再会するときには、それこそ覆しがたい戦力差、国力差によって、手もなく捻り倒されるかも知れないのだ。

 勝頼は軍議の席で宿老達が撤退論を主張するであろうことをあらかじめ予想していた。なので、軍議に先立ち同陣していた跡部大炊助及び長坂釣閑斎を密かに本陣へと招致した。無論、例によってこの二人に勝頼の意を含ませておいて、軍議の席で決戦を主張させるためであった。

 かかる下準備のもと、軍議は招集された。

 まず発言したのは逍遙軒信綱であった。信綱は自らが引っ捕らえた城方の間者の尋問に同席していたので、これまで得た情報のひとつひとつを説明した。

「城内の兵粮は二三日で尽きる。三日前の時点で籠城兵は二百五十名、鉄炮はそれより多く五百丁。しかし同じ三日前の時点で、一人あたり発射できる弾丸は十指に満たない量であったという。この三日間の攻防により、弾薬はこれよりも数を減らしたことは確実である」

 これは長篠城に関する情報である。

「信長後詰は現在岡崎に在城している模様である。足助城に込めた下條伊豆守からは敵兵数に関する報告は未だない。捕らえた城方の間者によれば、その兵数は約十万ということである」

 約十万という言葉に、一同からどよめきが起こった。

「ここは、一旦引き退かれるのがよろしかろう」

 と発言したのは穴山玄蕃頭信君のぶただであった。

「約十万など眉唾物の数字ではございますが、話半分としても約五万。それに対し当方は一万五千。後日を期すべきでしょう」

 信君はそのように続けて、決戦回避を主張した。

「決戦回避はようござるが、長篠城は如何なさるおつもりか」

 信君に訊ねたのは馬場美濃守信春であった。

「長篠城はもはや落城寸前。おそらく一両日持ちますまい」

 信春の発言は、後詰の一軍との決戦回避を前提とする意見であり、決戦回避論に立脚した上で長篠城を落としてしまうのか、殿軍を置いてこのまま撤退するのかと問うたものであった。無論信春は言外に、長篠城は陥落させてしまうべきであると主張したのである。信君は信春の質問を受けて、

「長篠城は陥落させるべきでしょう」

 とこたえた。

 馬場穴山両名の意見は至極真っ当なものであった。この時代、城の後詰を目的に出馬してきた援軍が、救出すべき城の陥落を聞いてあっさり退いてしまう、ということは当たり前のことであった。目的を失った戦役を強行すれば、将が軍をわたくしして私戦をおこなったものと見做され、人々の支持を失う原因にもなり得るからであった。つまり高天神城のときと同様、長篠城さえ落としてしまえば、如何に大軍を引率する信長であっても撤兵する公算が高いといえた。

 軍議はなんとなく

「長篠城を早急に落としてしまい、信長を撤退に追い込み、延いては決戦を回避する」

 という方向に落ち着きつつあった。

「お待ちあれ、御両名」

 そこへ異を唱えはじめたのは跡部大炊助であった。

「そもそもこたびの出師の目的、ご存知ないなどということはございますまい」

 大炊助の問いかけに、信君は目を剥き怒りを隠さずこたえた。

「岡崎城の接収だ。岡崎城に手引きする者があったからだ」

「左様でございます。我等そもそも、三河に内通者が出たことを奇貨として出張ってきたものでございましょう。もしこの計策が成っておれば、今ごろ岡崎城を接収して、徳川領国は全く我等のものになっていたであろうに、かかる企ても潰え、長篠の如き小城ひとつ落としたことに満足して撤退するなど、なんとこころざしの卑しいことか。そうは思いませんか」

 大炊助は傲岸不遜ともいえる言い方をして慎重論者を挑発した。

 これに対し、噛みついたのは跡部長坂あたりとは殊更折り合いの悪い内藤修理亮昌秀であった。

「鑓も満足に振るえぬ吏僚が、毎度ながら癪に障る物言いよ」

 昌秀がそのように罵詈雑言を口にしたあとに曰くは

「およそ合戦においては、人数以上に力を発揮するものはない。これは断言できる。志云々でどうこうできる性質の話ではないのだ。何故それが分からんか」

 という意見であった。

「畿内近国約十万の兵卒という話で、修理亮殿はそれを過度に恐れておいでのようだ。信長は直前まで摂津にはたらっていたはず。信長はその方面で戈を収め、押っ取り刀で東へ押し寄せたのでしょう。つまり信長の率いる兵は今年の二月から働きづめに働いているということになります。如何に多勢とは申せ、ものの役に立つ軍勢とも思えませぬ。疲れ切った兵卒を恃みにむこうから出張ってきてくれたのです。これは信長の増長慢心を打ち砕くために神仏が与え賜うた千載一遇の好機ですぞ」

 そう言って跡部大炊助を後押ししたのは長坂釣閑斎であった。

 内藤修理亮昌秀は

「勝てると申すか」

 と釣閑斎をめつけながら言った。

「勝てぬと考える理由が分かりません」

 釣閑斎の反駁に対し

「数だ! それ以外にない」

 と昌秀がこたえ、軍議は感情的になりつつあった。

 この様子を勝頼は黙って眺めるだけであった。馬場信春や穴山信君、内藤昌秀等の意見は、個々の戦役に限って見ればまさに正論であった。全力を投入して一刻も早く長篠城を落としてしまい、信長の大軍を撤退させてしまうことが常識的な戦術と考えられた。そのようなことは勝頼とて先刻承知の話なのである。

 内藤昌秀などは、鑓も満足に振るえぬやつばらなどと、ことあるごとに跡部長坂をこき下ろしたが、鑓働きにかまけて武田の台所事情を知らない彼等は、勝頼が今のうちに信長に一撃を加えておきたいと焦る理由が理解できないのだ。信長との戦争は、父信玄が遺言したように持久戦に持ち込めばこと足りるなどという生易しいものでは断じてなかった。日が経つにつれ武田が利を失っていく性質のものであることを、勝頼は家督を相続して思い知ったのだ。

 なので噴出する慎重論を前にして、勝頼は鬱憤を隠すのに必死であった。

 何とか勝頼の意見を通そうと奮闘する跡部長坂両名の発言も、慎重論の前にかき消されつつあった。このまま自分が黙っておれば、決戦論は押し潰されてしまう見通しである。勝頼は異例ながら自らの意見を披瀝ひれきすることを決意した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る