甲相激突(二)
これはまさに、関東の要衝沼田城に突如突き付けられた匕首の如きものであった。氏政はこれを除くため、天正八年(一五八〇)、弟氏邦に大軍を預けて小川城攻略に向かわせているが、小川可遊斎は執念でも北条の眷族に屈することはなかった。氏邦の攻勢は二度にわたったが、いずれも城方の激烈な抵抗に遭って撃退されている。
一方、小川可遊斎の帰属を得た真田昌幸は、例によって矢澤頼綱を先鋒としていよいよ沼田城攻略に取り掛かった。沼田城に詰める北条方の将は用土新三郎、金子泰清等であった。昌幸は正面攻撃を併用しながら、小川城攻略の際に執った手段と同様に、用土新三郎に宛てて降誘の使者を遣り硬軟を使い分けて攻め立てた。用土新三郎は敵対する真田からの使者と聞いてもこれを斬ることはなかった。昌幸は用土新三郎が使者を受け容れることについて成算があった。用土新三郎の父は、もともと藤田氏を名乗る武蔵北部の豪族であった。北条氏康は勢力拡大の過程において、息子氏邦を藤田氏の養子にやった。北条藤田両家の紐帯を強めるといえば聞こえは良いが、要は乗っ取りである。乗っ取られた藤田新三郎は姓を用土と改め、家を乗っ取った氏邦の組下に入って沼田城に詰めている身であった。これで面白いはずがない。昌幸は、小川可遊斎を籠絡したときと同様、用土新三郎に宛てて知行宛行を約束する判物を発行した。昌幸が用土新三郎に約束した所領は、沼田城の重要性に鑑みて五七〇〇貫という広大な領域に及んだ。さすがにこれには矢澤頼綱も昌幸に疑問を呈して
「後々の知行宛行に窮するであろう。もう少し狭めた方が良い」
と警告を発したが、昌幸は
「当家興亡のときです。ケチくさいことはしていられません」
と取り合わなかった。これを聞いた頼綱は、昌幸の言う「当家」という言葉が武田家を指すものか、真田家を指すものか、一瞬分からなくなった。
ともあれこの判物の内容に喜んだ用土新三郎は城ごと武田に転じ、勝頼からその忠節を激賞されて当時藤田姓を名乗っていた簒奪者北条氏邦に対抗する目的で藤田氏に復姓して、藤田信吉を名乗ることになる。このように、昌幸の活躍によって東上野における戦いは武田家有利に推移していたが、矢澤頼綱が昌幸に発した事前の警告どおり、知行地を大盤振舞いした矛盾は早々に噴出した。昌幸は用土新三郎改め藤田信吉と共に沼田城に籠めた海野輝幸幸貞父子に謀叛の嫌疑をかけた挙げ句、これを誅殺するという事件を起こしている。藤田信吉への大領付与に伴う知行地不足を、粛正という形で補おうとしたのではないかといわれている。事実とすればなんとも血生臭い仕置である。
このように、上野方面では武田の攻勢が盛んで、がっぷり四つ、一進一退の攻防を演じていた駿豆国境とは大違いであった。
「上州は一体どうなっておるのか」
沼田城失陥の報を得た氏政はさながら恐慌を来したかのようにがたがたと震えながら板部岡江雪斎に言った。氏政は続けて
「信玄亡き後の武田、恐れるに足らずと考えておったが、このままでは上州失陥のみならず当家滅亡に至ってしまうのではないか」
と不安を隠すことがなかった。
氏政という人物はなにごとにつけても極めて慎重であった。父氏康が関東に勢力圏を広げていく過程で、諸制度を定め、きめの細かい統治をおこなった、その帝王学を叩き込まれたからであろうか。事実、たとえ大勢力を誇っていたとしても、少しの行き違いに端を発して領国経営が破綻し、あっという間に滅亡につながる民心の不安定な時代であった。そのような時代背景があって、氏政の慎重さは育まれたのであろう。これに加えて血筋もあったと思われる。父氏康は「氏康疵」の故事で知られるほどの勇将でもあったが、幼少期には臆病者との評価がもっぱらであった。後年、河越夜戦や謙信による小田原城包囲などの修羅場を乗り切ったことが氏康を鍛えた。氏政には、父のように紙一重の危機をくぐり抜けた経験がない。氏康から猛き心をまったく取っ払ってしまったのが、氏政という人物であった。勝頼にはそういった氏政の慎重さが、臆病と映った。黄瀬川において対陣したとき、勝頼は氏政の慎重さを見越して決戦を申し入れた。氏政は甲軍に三倍する兵力を擁しながら、勝頼在陣中は黄瀬川を越えようとしなかった。結局勝頼の
「氏政は決戦に応じることはない」
という見立ては誤りではなかったわけである。ともあれ氏政は、勝頼の並外れた武勇を恐れていた。板部岡江雪斎は、このように恐慌を来す氏政に対して
「年初、何のために浜松に使者を遣ったか、落ち着いて思い出されよ」
と申し向けると、氏政は俄に愁眉を開いた様子で
「そうであった。このときのために手を打っておいたのだ。こうなれば手を拱いてはおれん。上方に使者を遣って信長公の助力を得なければ、勝利は危うい」
と呟くと、急ぎ右筆を呼び寄せて、
「関八州御分国を挙げて信長に協力する」
と、改めて織田家に服属する旨書状を
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