境目争い(三)

 翌日、小池郷の主だった面々は草間屋敷に集い官兵衛陣代三右衛門尉を含めて車座となり対応を談合していた。内田郷の百瀬志摩が小池郷のために便宜を図って動いてくれたにも関わらず色好い返事を得られなかったことで、小池衆はいよいよ手元不如意となっていた。

「薪も炭も、今から準備しておかにゃあ冬に間に合わんずら」

「お前のところは随分薪を貯め込んでおったな。他に融通してやってはもらえんか」 

「駄目だ。もう何本も他に融通してやって、家で使う分がやっと残るばかりずら」

 小池の人々は燃料となる木々を採取できる目処を失い恐慌を来して談合の席は騒然となった。三右衛門尉は村人達が侃々諤々取り交わすのを黙って聞いていたものであるが、意見の出尽くした諸人が黙り込む時機を見計らったように口を開いた。

「やむを得ん。公事に訴え出よう」

「訴え出る? どこに」

「甲斐まで赴いて武田のお奉行に訴え出る」

 すると村人達は

「無駄ずら。揉み消されるのが関の山だ」

「そうだ。お奉行が桃井様相手の訴えなどに耳を傾けるものか」

 と諸方から反対する意見が飛んできた。

「桃井将監様にものを言うことが出来るのは武田のお家をおいて他にないと考えて出した意見ではあるが、他に妙案があるというのなら聞こう」

 三右衛門尉がそう投げかけた途端、それまでかまびすしく反対していた村人達がぴたりと口を閉じた。訴訟に反対してはみたものの、有効な代案などもとより持ちあわせてはいなかったのである。三右衛門尉は口を噤んだ村人達に向かって諭すように言った。

「わしは明日、甲斐に向けて発する。もとよりこの願いは聞き届けてもらわねばならんものだ。武田は喧嘩はならん、そんなことをすれば両方を成敗するぞ、理非があるなら目安(訴状)によって訴え出よと自ら布礼ふれておるのだ。なのでこの訴えは聞き届けてもらわねば困るのだ。みなは武田のお奉行が桃井様相手の訴えになど耳を傾けるものかと申すが安心せよ。この訴えは我等小池が必ず勝つ。それは疑いのないところである。内田山には、じきに入ることができるようになるであろう。そのことについては心配に及ぶ必要はない。しかしな。事はそれで終わりではないのだ。この小池郷がある限り、同じようなことはこれから先、幾度もこの村を見舞うことであろう。先々のことを考えれば我等に理のあるところをこの際公事によって明らかにしておくことこそ後生こうせいの備えにもなると考えるがどうか」

 三右衛門尉はそうまで言って自分の言葉に驚いた。公事に訴え出ることについて懐疑的だった昨日までの自分とは、全く別の意見を口にした自分がそこにいたからである。それはまるでこの場にいない父官兵衛が乗り移ったかのような言葉であった。そして三右衛門尉は、たった今自分の口を衝いて出た言葉が、やはり自分の口を借りて官兵衛が語った言葉であることにすぐに気付いた。幼いころ、牛伏の川を通りがかるたびに父が口にしていた言葉が、その出処でどころを三右衛門尉の口に変えて出てきたのである。

 三右衛門尉は車座に座する村人一人ひとりの目を見た。車座の中にあって父官兵衛が村人達から受けていた畏敬の眼差しを、今自分が受けている。そのことに気付くと、三右衛門尉は内心

(もし直訴して御屋形様が罰を下さるというなら、腹を切るのは父ではなくわしでなければならん)

 と思った。自分の意見として公事に訴え出ることを決断した以上、腹を切るのは自分でなければならない、自然そのように思われたからであった。 

 翌日、草間三右衛門尉は次郎右衛門と次郎兵衛を伴い甲斐に向けて出発した。甲斐府中までは歩きづめに歩けば二日の距離であり、さほどのものではないが、公事のために甲斐に滞在する費用も見込まれるので、郷村の人々が少しずつ旅費を出し合っての出発であった。

 道中塩尻の峠を越える際、三右衛門尉は峠から諏方の湖を見下ろした。諏方の湖は夏の強い陽射しを反射して眩しいほどに輝いて見えた。三右衛門尉は、諏方の湖面に輝くもう一つの太陽を見て若者らしい感性で素直に感動した。三右衛門尉にとってその輝きは、諏方の大明神が今回の公事の勝利を約束し祝福してくれているもののように映ったのであった。

 一行は更に進んで甲斐に入り、巨摩に至った。そこまで至って三右衛門尉は、訴えの要旨を記載した書面の内容に今更ながら不安を抱いた。一応父に添削を依頼したものを持参してはいたが、父とて目安についてさほどの知識を持っているものではないのである。村を出る前に小池郷を檀家とする寺の住職にでも添削を依頼しておくべきであったことに、甲斐に入ってから気付いたものであった。そこで三右衛門尉は、加賀美山に立ち寄って法善寺の門を敲いた。同寺住職に目安の添削を依頼するためであった。

 三右衛門尉は住職に突然の訪問を詫び、次いで目安を差し出し訪問の主旨について説明した。加賀美の大坊を名乗る住職は

「刀槍に拠らず公事に拠って解決を試みるとは殊勝な心懸けである」

 と一行を賞賛し、請われて目安に目を通すと、

「まるでなっとらん」

 と訴状の体裁を整えていないことにまず苦言を呈して、それから

「ここはこう、あれはこうすべきであろうな」

 などと独り言をぶつぶつ言いながら訴状に何やら書き加え、小僧に

判紙はんがみを一枚持って来い」

 と申し付けた。そして小僧が持参した寺の判紙にすらすらと文言を書き始めた。書き終えると大坊は自らが体裁を整え新たに作成し直した目安を三右衛門尉に示した。

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