岩村城の戦い(四)

 平林右衛門尉は、急遽布礼ふれ出された出陣命令のために大わらわであった。兄が半年前の長篠戦役で戦死してからというもの、突然家に呼び返され、跡取りに立つように言われたのである。家のことは父や兄に任せ、自分は甲府に出て商売人として身を立てていたものであったが、その兄が戦死、父も隠居のために、右衛門尉が平林家の跡取りに立たねばならなくなったのだ。そして平林家の申請は武田家によって認められ、全く武道の心得のない平林右衛門尉が士分として取り立てられることになったのである。

 無論このようであるから、如何にして具足を着するかも知らず、敵を目の前に置いて如何に鑓を振るうかも知らず、ただ父に叱咤されるまま具足を身に着けて、鑓を持ち、指定された滝沢要害へと参集したのであった。

 久しく歩いたことのない山間の道を、重い具足を身に着けながら歩く右衛門尉は、なんでこんなことになってしまったのかという考えが何度も頭の中に湧いて出て、道中溜息を何度吐いたか分からなかった。右衛門尉は山道を歩きながら、自分と同様着慣れない具足を身に着けて不安そうに歩く者を何人も目にした。皆青ざめた顔色を呈していた。きっと自分も同じように真っ青な顔をしているに違いないと右衛門尉は思った。

 滝沢要害に到着すると、いかめしい武田の侍が参集した人々の前に立って

「そこもと等は、いくさを難しいものと考えているようだが、存外に簡単なものだ」

 と訓示をぶっているところであった。

「よいか、鑓を構えるときはどっしりと腰を落として重心を下に置き、物頭ものがしらの号令に従って斯くの如く振り上げ・・・・・・」

 武田の侍は見えぬ鑓を振り上げる素振りを見せて

「更に物頭の号令に従って、やっ! と振り下ろせば良いのだ」

 と言いながら、その見えぬ鑓を振り下ろした。

「物頭の指示に従い、勝手な行動を慎んで身を振れば、敵に討たれるということはまずない。それに岩村城には手練の侍衆が多数籠もっておる。そこもと等が危機に陥ったとみれば、城から打って出て必ずや救ってくれるであろう」

 武田の侍がここまで言うと、急遽参集を命じられた素人侍が遠慮がちに手を挙げた。

「あのぅ・・・・・・、ちょっとよろしいですか」

「なんだ」

「あのぅ、おら・・・・・・いや、それがし、鑓ではなく弓なんですがのぅ」

 素人侍は真新しい弓を示しながら言った。

「鑓も弓も同じだ。兎に角物頭の号令によく耳を傾けて、そのとおりに動けば良いのだ。勝手な行動は厳に慎めということだ」

 武田の侍は面倒くさそうに吐き捨てると、滝沢要害へと出発する彼等素人侍集団を見送ったのであった。

 平林右衛門尉等総勢千名の素人侍達は、陣地と指定された場所へと向かう道中、武田の侍から、前後両隣の者の顔と名前をよく記憶しておくようにと言われたそれを実践したが、いまの自分の置かれた立場が、どうにも現実のものと思われず、お互いに名乗りはしたが、何か悪い夢の中にでもいるようで現実感がまるでなく、傍輩たる者の顔と名前はなかなか一致しなかった。どうやらそれはお互い様のようであった。

 それにしても、あの厳めしい武田の侍は、

「そこもと等屈強の侍が千人」

 云々と口にしていたが、辺りを見渡しても屈強の侍と呼べるのは百人に一人いるかいないかであって、どう見ても弱体な素人集団でしかなかった。この集団が、折に触れ甲府で見かけた軍勢と同様の働きが出来るとは、右衛門尉にはとても思われなかった。

 陣地と指定された場所は、とても人間が腰を据えて居られるような場所ではなかった。草木に覆われた急峻な山の斜面であって、陣を構えたからとて何日も過ごせるような場所とは到底思えない。それどころか半刻も立っておれば脚がくたびれて棒のようになってしまう有様であった。また遠目に見る岩村城は、既に城の最前にある柵や塀が相当破壊され、一部は敵方に奪取されている様が見て取れた。

 如何に精強を誇る籠城兵とはいえ、あのようにがっちり取り囲まれた状況では、城から打って出るということはどう考えても不可能であろう。右衛門尉には自然とそう思われた。

 しかし素人侍を率いる二十一人の物頭は、主家から命じられた岩村城救援の任務を達するために軍議を開いている様子であった。右衛門尉は

(軍議の結果、後詰は不可、撤退すると決定してくれれば良いのだが)

 等と考えていたが、そのようなことがあるはずもなく、敵陣に向けて攻撃を仕掛ける日取りを十一月十日、夜間におこなうことが決定された。

 そして十日の夜。

 日中から雲が湧き出て薄暗い日であり、夜間も月は隠れて夜襲に適した天候であった。素人侍集団は山伝いに敵の包囲陣に接近した。物頭は静かに攻撃の采配を振るった。それを合図に押し太鼓が打ち鳴らされる。

「何をやっておる! 鬨の声を上げろ!」

 物頭からそう言われた素人侍の何人かが、慣れない鬨の声を上げるとみながこれに倣って、声を上げはじめたが、敵に斬り掛かろうという者がない。

 物頭は

「それ、行け。行かんか」

 と攻撃を促すが、或る素人侍は

「鑓を振り上げる号令をお願いしますだ」

 というばかりで、敵陣に斬り込もうともしない。夜襲は敵の不意を突くことに意味があるのであって、このような間の悪さでは夜襲を仕掛けた意味がない。

 最初は唐突に響いた鬨の声に対し、それなりに驚き慌てた織田方であったけれども、そのあとに斬り込んでくる敵兵がないので拍子抜けし、その間にかえって反撃に転じるほどであった。

 右衛門尉も見よう見まねで鬨の声を上げ、打刀を片手に敵陣に斬り込んではみたが、腐葉土に覆われた山肌は足場甚だ悪く腰が定まらない。そんななかを、織田兵と思しき侍がしっかりとした足取りで山肌を駆け巡り、

「あそこに弓の衆がおる。気をつけろ」

 とか

「そなたは城の監視を怠るな」

 などと互いに言葉を交わしながら連携して事態に対処している様を見るにつけ、武田の素人侍が到底敵し得る相手ではないことが改めて浮き彫りになった。右衛門尉はもはや、敵を討つとか城を救うとかそんなことは一片たりとも考えなかった。ただ自分が生き残ることだけを考えた。右衛門尉は兜も具足も脱ぎ捨て、打刀も放り出して冷たい地面に伏せた。身を伏せて、その場をやり過ごすためであった。しかし如何に右衛門尉に戦意がなかったとしても、襲われた織田兵にとって襲いかかってきたのが武田の兵であることに変わりない。ほとんど赤裸で地面に寝そべる姿も、彼等織田兵から見れば敵の姿に間違いなく、何を企んでいるのか分からない分だけ余計に不気味であり、その態度を硬化させた。

 織田兵の一人は右衛門尉の髻を引っ摑んだ。頸を掻くためであった。右衛門尉は必死になって叫んだ。

「待って下され、殺さないで下され。命だけはお救い下され!」

 必死の懇願だったが、これで見逃して不意を突かれれば何をしているのか分かったものではない織田兵はそんな懇願には耳を傾けようとしない。右衛門尉が諦めたそのとき、背後にのし掛かっていた織田兵が突然引き退きはじめた。右衛門尉が顔を上げると、そこには痩せ衰えてはいるが、独特のしっかりした足取りで急峻な斜面に身を操る侍達の姿があった。味方の後詰部隊が夜襲を仕掛けたことを契機として、岩村籠城兵が城を打って出てきたのだ。

 武田の侍が言っていた

「屈強の岩村籠城兵がきっと助けてくれる」

 というのは本当だった。勇気づけられた右衛門尉は先ほど擲った打刀を再び手に取ると、引き退いた織田兵に斬り掛かった。

 しかしなんたる無常であろうか。

 如何に岩村籠城衆の助力を得たとて、歴戦の侍相手に素人の業が通用するはずもなく、右衛門尉は織田兵によっていともあっさりと撃ち倒されてしまった。

 したたか叩っ斬られた右衛門尉の意識は急速に薄れていった。暗くなっていく視界には、痩せ衰えた岩村籠城衆が織田兵に次々撃ち倒されていく様子が映っていたが、やがてそれも見えなくなった。岩村籠城衆や、味方の素人侍達の断末魔が鼓膜に届いたが、これが右衛門尉が外界に起こった現象を捉えた最後であった。

 この日、圧倒的に優勢な敵包囲陣に夜襲を仕掛けた武田の後詰部隊であったが、攻撃は思うに任せず、また城から打って出た籠城兵も包囲を打ち破ることは出来ず、城に舞い戻るより他なかった。

 織田方は後詰に寄せた武田軍を逐うため山に分け入り、城を救うため急遽編成され派遣された千人の素人侍と、二十一人の物頭は残らず討ち取られるか、山中で餓死したと伝えられている。

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