大賀弥四郎事件(五)

「畏れ多いことを企てなさる」

 弥四郎自身の口から謀叛の企てを聞いた彼の女房は、そのように驚きの声を上げた。弥四郎の女房は

「上手くいくはずがありゃあせん、やめなされ」

 と続けた。

 企てがとんとん拍子に進み、武田家から計画を了承した旨の朱印状がもたらされた今、ことは成功したも同然と、弥四郎は女房に計画のあらましを誇るように告げた。不安がって止める女房を弥四郎はむしろ嘲って、

「そのような下劣言葉は改めよ。そなたは間もなく、武田家岡崎城代家老大賀弥四郎の妻となるのだぞ」

 と自信たっぷりに放言したそのときである。俄に複数の侍衆が弥四郎邸宅に踏み込んできた。侍衆はじょうによって勝頼朱印状を持つ弥四郎の手首を打ち、朱印状はひらりひらりと床に落ちて、謀叛の証拠として押収された。

 一瞬にして謀叛が露顕したことを悟った弥四郎は一切抗弁しなかったし、よしんば抗弁したとしても侍衆は日頃の鼻持ちならぬ弥四郎の態度も相俟って聞く耳持たなかったであろう。

 憐れなのは良人おっとによる不逞の企みを止め立てしようとしたその妻、そして何も知らぬ三人の子である。謀叛人の一族として、妻子も捕縛された。

 弥四郎は縛られたまま市中を引き回された。弥四郎に対する取調べは一切おこなわれなかった。山田八蔵からの注進により、謀議の中心人物たる小谷甚左右衛門と倉地平左衛門も、大賀弥四郎捕縛に先立ち捕らえられており、その取調べによって企みの全ては既に露顕していたからである。

 もし、下手に弥四郎の取調べに及んで、

「国力差から考えても、徳川は武田に勝ち目はない。信長もあてにならず、三河国衆を守るためには武田に降るよりほかない」

 等と、謀叛の動機をそのように主張されてしまえば、取調べに当たる者の中に、弥四郎の主張に同意する者が現れないとも限らなかったという事情もあった。

 この時代の、裏切り者に対する処断は残酷極まりなかった。下手に容赦すれば謀叛が連鎖しかねないからであった。

 弥四郎は鋸引のこびきの刑に処された。これは罪人の首から下を土中に埋め、その横に置かれた竹の鋸によって通行人に罪人の首を引かせるという刑罰である。残酷な刑罰が並ぶ中でも飛び抜けて酷い刑罰であった。 

 罪人が埋められた付近には罪状が書かれた高札が掲げられた。弥四郎は土中に埋められるに先立ち、脚の筋と手指十本を切断された。切られた手指は土中に埋められた弥四郎の眼前に並べられたという。更に弥四郎の目の前には、謀叛に加担するどころかこれを押し止めようとした彼の女房、そして三人の子が磔台にかけられ、処刑の時を迎えていた。

 手指を切られて既に相当弱っていた弥四郎の眼前で、妻子は順番に突き殺されていった。最期に際して弥四郎の女房は、

「お前様がつまらぬ企てをしなければ、このようなことにはならなかったのに!」

 と怨みの籠もったひと言を叫んだが、もはや弥四郎には、自らの企てを正当なものであると熱弁を振るう気力は失われていた。

 通行人に首を切らせるとはいうものの、その罪人に対してよほど強い憤りでもない限り、他人の首を切るなどという行為はなかなか出来ないものである。案の定、道行く人々は高札を眺めるだけか、刑場に立つ侍に

「これは何ごとですか」

 と訊ねるばかりで、実際に鋸を引こうという者はいない。それもそのはずで、竹製の鋸は切れ味甚だ悪しく、これによって首を切ろうと思えば罪人は相当な痛みに苦しみ叫び、その表情は歪んで、柄から手に、肉を切る感触が直接伝わって不快極まりないからであった。弥四郎の首の左側には、既に何人かが鋸を引いたことによって出来た傷があったが、それは未だ人体の深部に至らない浅いものでしかなかった。

 そこへ現れたのは山田八蔵であった。

 八蔵の姿を見るや、それまでぐったりしてひと言も発しなかった弥四郎は突如目を剥き怒りの表情を示しながら

「汝は三河国衆を思う我が志を知りながら、どのつら下げてここにあるか!」

 と大喝した。八蔵が誅されることもなくこの場にいる、という一事によって、弥四郎は八蔵の裏切りにより謀叛が露顕したものと悟ったのだ。自分の見立てに相違して、家康が八蔵の注進を信じたという悔しさも相俟って怒気は一層烈しいものとなった。

 大喝された八蔵は、しかし相手は体を土中に埋められ、手も足も出せないことを熟知しており、黙って竹鋸を手に取るや、これを引いた。鋸を一度引くたびに、ぶちぶちという嫌な音と、弥四郎の呻き声が響いた。さすがに悪心を催したのか、八蔵は二三度引いて止めてしまった。すると弥四郎は、

「裏切り者め!」

 と再び怒りの目を八蔵に向けて雑言を吐いた。八蔵は鋸を引かない代わりに、その顔を思い切り蹴飛ばして刑場を立ち去った。刑場に立つ番手の侍は、八蔵を止めもしなかった。

 大賀弥四郎は、鋸引きの刑を開始してから七日後の四月五日に死亡した。他の謀叛同心衆である小谷甚左右衛門、倉地平左衛門両名は打ち首、山田八蔵は謀叛の企みを家康に注進した忠節が認められ、加増の沙汰を得たという。

 後世に大賀弥四郎事件と称される、血生臭い一連の事件はこうして収束したのであった。

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