渦巻く不満(一)
(諏訪の鬼子め)
穴山信君は勝頼から下命があるたびに、心の中で彼をこう罵った。
甲斐国巨摩を本貫地とする穴山氏は、もともと府中武田氏の庶流として発祥した。延文(南朝では正平)のころと伝えられる。信虎期には信君曾祖父穴山信懸が、駿河の今川氏親に属して宗家に楯突いた歴史もあるにはあったが、父信友の代に至って信虎娘南松院殿をその正室として迎えるに及び、一門として厚遇を得るに至る。
家督相続争いは当代の武士の宿命であった。甲斐武田氏は殊にその傾向が強い。信虎の祖父信昌は、一旦嫡子信縄に家督を譲りながら、その信縄と対立してこれを撤回、自身のもう一人の子にして信縄弟たる油川信恵を擁立し、嫡子と激しく争った。その争いを引き継いだのが信虎であった。信虎は叔父信恵一党を葬り去って武田宗家の統一を果たしたが、国外に向かって飛躍するこれからというときに、嫡子晴信(信玄)によって国外追放の憂き目を見た。その信玄も、義信への権限移譲を企図しておきながら、信玄の意を越えて国主の座を望んだ義信の謀議を事前に察知し、自らの手でこれを排斥し殺害している。信玄は、既に高遠諏方家を継承していた勝頼を急遽武田家に呼び戻して、「やむを得ず」彼を後継者とした。甲斐武田宗家は家督相続に際し、実に四代にわたって内訌を繰り返してきたわけである。かかる事象は、もはや甲斐武田家の悪しき伝統といって良い。
これに加えて信玄期に繰り返された外征による親族の死も武田家に暗い影を落とした。はっきりいってしまえば信玄実弟典厩信繁の、八幡原における戦死である。兄信玄より信濃攻略の総大将に任じられ、「典厩九十九箇条」を著して、外征、内治に手腕を発揮した信繁である。存命しておれば重鎮として信玄の志を扶けたに違いなかった。この信繁の早過ぎた死は、信玄を激務にさらしてその死期をも早めた。結果として信玄から勝頼への権力移譲の時間を十分に確保することができず、勝頼は家督相続直後に家中の統制に苦慮することになるのである。
一門の重鎮といえば信玄のもう一人の弟、逍遙軒信綱のことに触れなければなるまい。生年は享禄元年(一五二八)、天文元年(一五三二)の両説あって、前者ならば現時点(天正七年)五十二歳、後者ならば四十八歳である。まさに一門の重鎮たるに相応しい年齢であった。同じ一門とは言い条、そのなかでも年齢や血筋で細かく序列化されていた時代である。通常であれば信君より十も年長、武田宗家の血を引く逍遙軒信綱が一門重鎮として勝頼を補佐すべき立場にあったが、信綱の活動は信玄在世時から低調であり、絵画に特異な才能を発揮した以外に目立った事蹟は伝わっていない。晴信が薙髪して信玄を名乗ったとき、信玄は追随しようとした信繁に
「汝には俗体としてやって貰わねばならんことが山ほどある」
と言って諭しこれを引き留めた。信廉は、信繁と同様薙髪を願い出たが、内心ではもし自分が兄信繁のように薙髪を引き留められたらどうしようかと気が気ではなかった。自分としてはこれまで、戦場での働きや行政で手腕を発揮した覚えはなかったが、もし兄信玄が何かしら買うところがあって自分の働きを期待し、薙髪を引き留めるようであれば、今後とんでもない重荷を背負わされることになるのではないかと考えると、憂鬱な気分になったのである。だがそれは信廉の取り越し苦労に終わった。信玄は、信廉の薙髪を特段引き留めもしなかった。信玄が、弟信廉の武将としての武勇や内政手腕にさほど期待を持っていなかった証拠である。信廉は内心安堵した。これから先も家の難しいことは二人の兄に任せ、自分は与えられた最低限の役割さえ果たしておけば、あとは好きな絵を描いて静かに暮らすことが出来るのだという安心感であった。薙髪した信廉は以後、
「これからわしは、二人の兄のようにいくさや内治に忙しく走り回らなければならなくなるのか」
そう考えると、信綱は暗澹たる気持になった。兄信繁は信玄を補佐するため信濃に歴戦し、ときには自ら騎乗し鑓を構えて敵陣に斬り込むような危険なことを繰り返して、遂に今日、戦死してしまったのである。六道(人間が輪廻転生を繰り返す六つの世界。すなわち天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道の六つ)のうちの人間道と修羅道に身をやつし、数多の人々を殺してきたからには、武士の家柄に生まれ落ちてきた身、良将として近隣諸国に聞こえた高名とはいえ、兄信繁が神仏の祝福を受けることの出来る身とは到底思われぬ。兄が次に生まれ落ちるとすれば畜生道か餓鬼道か、はたまた地獄道か。死んだ信繁が、これまで担ってきた家中における役割を背負うということは、否応なくそういった道に墜ちる運命が自分に降りかかってくることを意味しているように信綱には感じられ、絶望したのであった。しかし、信玄は信繁を喪っても、信綱に対して同じ役割を求めることはやはりなかった。
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