天目山の戦い(二)
「天目山に入る」
武田の一門親類衆或いは譜代家臣のなかで、この言葉の持つ意味を知らぬ者はない。
俗に甲斐武田家は、新羅三郎義光を祖とし、当代勝頼で二十代を数えたと世に喧伝されていた。その甲斐源氏武田家も、一度滅亡の憂き目を見たことがある。応永二十四年(一四一七)のことである。
単に近隣の勢力と争って敗れ、腹を切ったというだけならば滅亡とされるものでもなかったが、甲斐守護職を任免する権限のあった室町殿に楯突く形で乱に参入したことがあだとなった。甲斐は一時的に鎌倉公方の直轄下に置かれ、武田家は甲斐守護職を逐われ、滅亡したものと見做された。武田家の甲斐守護職復帰は永享十年(一四三八)の武田信重入府まで待たなければならない。
その武田信満最期の地、木賊山に建立されたのが
勝頼が辺りを見渡せば、その言葉の意味を察して泣き崩れる旗本近習、上臈などがあった。そのうちに長坂釣閑斎光堅や穐山摂津守昌成等の姿が見えない。太郎信勝は長坂釣閑斎が小手先の策を弄して武田をこのような危機に陥れたと思っていたので、この期に及んで逃げ散り姿を消したことに非常な怒りを顕わにして
「謀叛した長坂源五郎と共に成敗しておくべきだった者を。これもまた祖父信玄の無分別の結果よ」
と、義信謀叛の事件を持ち出して言い放った。勝頼はこれまで長坂釣閑斎を重用してきたこともあって反論出来なかった。
土壇場で裏切ったこれらの者どもがその居所を敵に漏らしたものか、天目山の麓、田野において勝頼一行は遂に滝川一益の旗印を目にすることとなる。
一行は本能的に山上を目指した。出来るだけ高所に陣取り、敵方に対して優位に立とうとしたのである。だが山上から鉄炮を撃ちかけてきた者は、あろうことか武田の譜代として重用された甘利左衛門尉、大熊備前守。そして陣所を逃げ出したばかりの穐山摂津守であったという。実は木賊山周辺の人々は、みな戦乱を恐れて山に逃げ込んでいた。そこへ勝頼一行が山へ入ろうとしたことから、とばっちりを恐れこれを追い払うべく鉄炮を撃ちかけてきたのであった。
「最期の地と思い定めた山にも入れぬか」
勝頼は呻吟した。
「お前は武田の人間ではない」
累代の先祖からもそのように言われているように、勝頼には思われた。最期にあたって勝頼は自分が何者だったのかを改めて考えざるを得なかった。父信玄によって討ち滅ぼされた諏方惣領家の娘を母に持ち、その家を継ぐのかと思えば高遠諏方家継承という形でその約束も反故にされた。いずれにしても兄義信の采配に従って、戦場を駆け巡る生涯を送るのであろうと漠然と考えていたところに、降って湧いたような義信謀叛と家督継承。父信玄は勝頼を陣代と定め、諏方勝頼は武田勝頼と名を改めた。しかし一時とはいえ諏方を名乗っていた経歴と、その自己意識は譜代重臣との軋轢を生んだ。そして今、勝頼は武田家滅亡の地である天目山への入山を、譜代家臣や土地の人々に拒否されたのである。
(俺は、何者だったのだ)
怒りと悔しさがない交ぜになった、怒濤のような感情が勝頼の内奥に湧き出してきた。一方で勝頼には、そのような激情の中で生涯を終えることへの拒否感もあった。
(武田家が俺を認めないのではない。俺が武田家の人間であることを拒否するのだ)
勝頼は口には出さなかったがそのような気持ちを強く持った。すると、不思議と怒りが解けていく。自分が今やるべきことが見えてきたような気分になった。勝頼は敵が未だ接近しきらぬ間に、天目山の麓の郷村にある、最も手広い屋敷を接収した。
この百姓屋敷が、武田家滅亡の地となるかと思うと、勝頼は満足であった。
ことあるごとに新羅三郎義光以来の名族だ、清和源氏の嫡流だなどと喧伝してきたあの武田家が、累代の最期の地を目の前にして百姓屋敷で終焉を迎えるのである。後世から嘲笑を受けることは疑いがなかった。
(これが、これまで散々俺を虚仮にした罰だ。武田に諏方明神の神罰が下ったのだ)
勝頼は心の中で武田家に対して、否、酷い仕置をして勝頼を今のような立場に追い詰めた亡父信玄に対して、有りっ丈の罵詈雑言を浴びせた。勝頼は百姓屋敷に急造の陣屋を構えるや、太郎信勝に対して
「今こそ亡父信玄の遺言を果たそう。今日この時を以てこの勝頼、家督を嫡男太郎信勝へと譲る」
と宣言した。その途端勝頼は、信玄から課された全ての義務から解放されたような安堵の感情を抱いた。信勝は全てを察してこれを受けた。側近達はその場で取り急ぎ家督継承の儀式を執行した。このような状況に立ち至り、冥界の信玄に向かって罵詈雑言を浴びせかけた勝頼であったが、我が子が愛おしいことにかわりはない。勝頼は信勝に言った。
「累代の家宝を打ち捨てここまで逃れてきたが、御旗、楯無だけは今もここにある。そなたはこれらを担いで奥州へと逃れるがよい。命さえ永らえば、いずれ再起を果たすときも来るであろう」
勝頼は信勝にそう勧めた。信勝は落ち延びることを勧める勝頼に対して
「父上こそ相模へと落ち延びられよ。父上は氏政の婿にあたるお方ゆえに、その庇護を受けることが出来るでしょう。私は武田の当主として、この場にて戦った後、潔く腹を切ります」
と返したというが、父勝頼が北条氏政と激しく争ったことを知る信勝がこのようなことを口にしたとは思えない。勝頼が北条の庇護を求めたとしても、その場で斬り殺されるか信長の許に護送されるのが関の山であったろう。いずれにせよ信勝が逃走を拒否し、この場における戦死或いは自死を選んだことだけは確かである。
勝頼は次に、
「そのような恐い眼をしてくれるな」
木曾謀叛以来打ち続いた戦陣での日々、逃走の疲労によって、勝頼の眼窩は落ち窪み豊かだった頬も痩けていた。それでも勝頼は林と会うときだけは出来るだけ疲労を
「このようになることが分かっていたから、先年の越後錯乱の折にあれほどお願いしたのです。何故兄(三郎景虎)を救って下さらなかったのです」
と難詰した、とする軍記物もあるが、これも先の信勝の逸話同様に信じることが出来ない話である。もし林が御館の乱に際しての勝頼の動向に不満があったというのなら、甲相手切の折に離縁していなければ辻褄が合わないからだ。
林は勝頼が本題に入るより前に
「なんと仰せになられようとも、私は御屋形様と添い遂げます。離縁など致しません」
と機先を制した。勝頼は先ほどまで努めて柔和を保っていた顔を途端に強張らせながら
「この期に及んで我が儘を申すでない。余が恥を忍んで新府城を捨てたのは、他でもない。そなたを無事相模まで送り届けるためであった。余の、否、武田の命運は新府城を捨てたときに既に定まっていたのだ。にもかかわらず余がここまで逃げてきた志を汲んで、相模へと落ち延びよ」
とまで言うと、林は涙ながらに
「御屋形様こそ私の志を知りません」
と切り出した。
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