家督相続(一)

「我が遺骸は甲冑を着せて諏方の湖に沈めよ」

 信玄は自らの遺体の扱いについてこのように遺言していたが、旧主の遺体を荼毘に付すこともなく湖中に沈めるなど実際問題出来るはずがなく、甲軍旗本は主人の遺体を奉戴したまま府第ふてい(躑躅ヶ崎館)へと帰還した。がん(棺)の中の信玄はそのまま壺中へと移され、壺は厳重に封がされた。これを本葬のときまで塗籠ぬりごめに安置するためであった。

 ほんの四年ほど前に政務見習いのような形で躑躅ヶ崎館に入ってから、勝頼は本当に政務見習いばかりをやっていた。外征に出る信玄に代わって府第の内々を差配したり、信玄不在中に提起された公事くじ(裁判)の目安(訴状)披露に及ぶことはあっても、内儀は飽くまで内々のことであったし、公事など国主が不在のときには停止されるのが一般的であった。一応速やかに裁許を下すことが出来るよう事前手続を済ませたりはしていたが、信玄在世中の勝頼には公事に裁許を下す権限すらなかったのである。家督を譲られていなかった勝頼は、外交文書など発給したこともなかった。

 それが、父が亡くなったというだけであらゆる政務が勝頼のもとにもたらされた。勝頼は具足を脱ぎながら、留守居役から訴訟案件や外交文書への返信、禁制等各種安堵状の発給手続についての申し継ぎを受け、これらの処理に当たらなければならなかった。

 勝頼は叫びたい気分であった。

 信玄からまともに申し継ぎを受けることもなく、政務の要諦について教わることもなく、ただ他に跡を継ぐべき者がいないからという理由だけで、自分がいまこの場にあることに困惑を禁じ得なかったのだ。

 目の前には山のような書状が積み上げられていた。思えば信玄は、長征から帰還すれば休む間もなくこういった書状類すべてに目を通していたものだ。勝頼はその父の姿をよく記憶していた。各奉行に処理を委ねる案件と、そうでない案件とを分別するためであった。自己の所掌事務を少しでも減らそうと思えば、面倒でもこういった書状すべてに目を通さねばならないということであった。

 信玄は甲斐国主から始まり、領国を拡大していく過程で徐々に政務が増えていくという経験をしたが、勝頼はそのような前段階が殆どないままに大国武田の政務を執らねばならなかった。信玄が何を基準に文書の仕分けをおこなっていたか、遂に勝頼は確かめることがなかったが、兎も角も自分が文書類に目を通さねば政務は始まらないのである。

 なお、勝頼のもとにもたらされる文書類のうち外交文書については、発送元との取次とりつぎを勤める重臣がまずはこれを受領し、返書の文案を添えて主の決裁に回す、という方式だったので比較的負担が小さかった。外交関係が激変しない限り、友好国との書面上の遣り取りなどそう頭を使うものでもない。

 悩ましいのは境目を巡る近隣との訴訟沙汰であった。いうまでもなく武士というものは所領に拘るものであるから、過去に発給された安堵状を根拠に、代替わりに際しても所領安堵を要求した。ただその要求についてはよくよく内容を吟味する必要があった。申請者にとって我田引水的な読み替えや恣意的解釈がしばしばおこなわれるからであった。

 政務を執り始めたばかりの勝頼は、目安の中に、昨年七月に武田に転じたばかりの奥平定能のものが含まれていることに気付いた。父信玄が信濃三河国境付近に根を張る山家三方衆を武田方に転じさせるため、三氏の間で領有が争われていた牛久保に関する裁許に不満があるということなのだろう。勝頼は山家三方衆との取次を担っていた長坂釣閑斎を招致して互いの主張する理非を聴取することとした。

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