後の巻 最終章 最後の日々
新府移転(一)
美濃、飛騨国境の国衆として一門に列せられていた木曾義昌の許に、美濃国恵那の遠山右衛門佐友忠から、降誘の使者が来訪しはじめたのは天正三年(一五七五)五月の長篠戦役直後からであった。信玄三女にして勝頼の異母妹である眞理を正室としていた義昌は、当初この誘いを一笑に付して取り合わなかった。かえって木曾谷に切所を構えて美濃岩村口からの侵攻に備えたものであったが、次第に苦しくなってきた。信長の侵攻を受けたためではない。課役が重なったためだ。
弘治元年(一五五五)に信玄に降伏して以来、家名の存続と独自の支配領域を認められてきた木曾氏の役割は、飛騨、美濃方面からの侵攻阻止にほかならなかった。その木曾が、長篠戦役以降、この方面に勢力を拡大できなくなったということは、他国に出でて富を奪う方途を失ったことを意味していた。この点、甲相手切によって真田家が上州方面に拡大できたのとは好対照である。つまり木曾義昌は富を得ることが出来ず、課役だけが重くのしかかってくるようになったわけだ。遠山友忠からの誘いにまったく乗らなかった義昌の心が、このころようやく揺らぎ始めた。そこへもたらされたのが高天神城陥落の報せであった。
聞けば勝頼は高天神城後詰が望まれる中、それを果たさず、経略の順調な上州方面に出張って膳城を攻め落とし、手柄を吹聴しているのだという。これは木曾義昌の織田家への服属を誘う遠山友忠の手紙によるもので、勝頼への悪意が多分に含まれた文面であったが、勝頼が高天神城後詰をおこなわなかったということは事実であった。このことは義昌に、他国とりわけ美濃方面からの織田家の侵攻に不安を抱かせた。
「武田は木曾谷を捨て駒に、本国の防衛を優先するのではないか」
義昌がそのように考えたとしても不思議なことは何もない。実際このとき木曾谷には、武田家から新府築城のための普請役を拠出するよう求める使者が訪れていた。信玄のころには甲斐本国に建てられたこともない巨城であるという。武田家からの使者は、
「稀に見る巨郭でありますから人数が必要です。決してこの課役を恒常化しませんから普請役の拠出を」
と、言葉遣いは慇懃ながらも殊更武田の威勢を誇るかのように義昌に伝えた。山がちで住まう人も疎らな木曾谷にあって、戦役やその他課役が重なっていた木曾の人々は疲労困憊していた。その苦衷を知らぬ義昌ではない。普請役の拠出を要請する武田の使者に対し、一瞬
(そのように人ばかり出すことなど出来ようか。加増が果たされんというのに)
と抗弁しそうになったが、義昌は寸手のところでこれを思い止まり、
「普請役であればいつでも出しますと御屋形様にお伝えください」
と心にもないことを口にしてみせた。大人げなくも苦渋の表情を使者に見せて、勝頼の不興を買うようなことを言上されはしないかと恐れたのだ。
義昌は不満をおくびにも出さず心にもないことを口にしなければならない自分の身を顧みて、これから先のことを考えざるを得なかった。国境の国衆として厚遇されていることは重々承知してはいたが、正室眞理も、その侍従として扈従する千村右京進等も結局は木曾に対する監視の任を負ってここにいるのだ。形式上独立を保っている木曾ではあるが、今回のように武田家から課役を課せられてこれを断るという選択肢は事実上用意されてはいなかったのである。父義康が信玄の木曾谷侵攻に際して抵抗の意を示したのも、このような立場に身を置くことを嫌ってのことであった。
加えて高天神落城の報せである。
(高天神城を棄てた御屋形様だ。他国の城は見捨ててでも、新築の城に逃げ込むつもりなのではないか)
考えまいとしても、義昌の脳裡にそのような思いが去来した。同時に、遠山友忠から頻繁にもたらされる手紙の内容が義昌の頭に浮かんだ。武田家に服属している現状では決して叶わないであろう加増が、その手紙では約束されていた。本領木曾谷の安堵に加え、安曇及び筑摩二郡の加増という内容であった。義昌にとってこの約束は、信長が信濃を切り取ってさえしまえば現実可能な約束のように思われた。義昌は正室眞理や、その侍従として木曾家に属していた千村右京進等の目を盗んでなにやら手紙を
先年、西原に北条氏は滝山衆の侵入を許した郡内国人小山田信茂にも言及せねばなるまい。さすがに準一門格、信玄以来の縁浅からず、かかる事態に遭遇しても意気軒昂であった。そもそも小山田家は武蔵と境を接する地理的要因から、累年北条家との取次を任されてきた経緯があった。こういった他国との取次を担う家臣は、関係国の内情に通じているという特質から、一旦同盟が破綻すれば先陣を切って旧同盟国に討ち入る任務も同時に担っているわけである。自らに課された任を知らぬ信茂ではない。彼は甲軍中随一と喧伝される精強の郡内衆を恃んで敵国に回った北条家との戦いを厭うことがなかった。郡内岩殿城に武田家譜代荻原豊前守の進駐を得て、先年の西原に続き、天正九年(一五八一)三月、棡原に侵攻してきた北条家を迎え撃っている。郡内衆は激闘の末これを打ち払うことに成功したが、二度までも甲斐国内に敵方の侵入を許した事実は国中(甲斐府中)の人々にとって衝撃であった。
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