新府移転(三)

 身辺が急に慌ただしくなった。上臈が取り仕切り、侍女達が新館内を忙しく立ち働いている。侍女は上臈に言われるまま、織田家から贈呈され松を愉しませた進物を何処かへと運び出していく。

「なにがあったというの」

 松が上臈を咎めると、上臈は能面のような表情を示しながら

「御屋形様からの御下知です」

 と冷たく言い放っただけで、それ以上松に構うことなく進物を運び出すよう手際よく指示を下していったのであった。

「父上が、織田家と雌雄を決すると決意なされたのだ」

 周りの大人達が――それは信玄を含めてのことであるが――皆押し並べて松に対し口を閉ざす中、実兄五郎盛信だけが松に本当のことを話した。盛信は続けて、父は駿河を併呑した勢いを駆って西上の軍を起こすつもりであり、自分は信州留守居役の任を承るため甲府へとやってきたのだ、というようなことを言った。

「御父上様が軍を進めようという先には、岐阜があります」

 父が自分の嫁ぎ先を攻めれば、縁談はどうなってしまうのか。松は言外にそう含めて、兄を詰った。たった一人真実を口にした五郎盛信こそ、その意思決定の当事者であるといわんばかりであった。ただ黙り込むだけの盛信に対して松はなおも

「どうして御父上様はそのような無体をなさるのでしょう」

 と追及を加えた。その松に対して、盛信は

「いずれ、良縁もあろう」

 とこたえるのがやっとであった。

 松が新館に信玄を迎えたのは、それから旬日を経たころのことであった。新館を訪れた信玄が、一瞬ぎょっとした表情を示したことに、松は目敏く気付いた。ほんの十日ほど前まで新館を飾っていた美しい進物のことごとくは、このたびの西上作戦に先立って少しでも軍費を稼ぎ出すために、信玄の命令によって運び出され売り払われて、軍費に換えられていた。殺風景に変わり果てた新館の様相を見て、信玄は驚いたのであろう。松は内心

(この殺風景な様相をとっくりご覧なされませ。すべて、御父上様の所為せいなのですから)

 と恨みを含みながら、自らの顔を隠すように深く伏して父を迎えたのであった。上座に座る信玄が、松に向かって

「息災であったか」

 とか

「西上の軍を起こす運びとなった」

 と遠慮がちに声を掛ける間、松は逐一

「はい。はい」

 と短くこたえる以外は黙ったままであった。松がだんまりを決め込んだので、信玄がそのように言葉を掛けても話は一向に盛り上がる気配がない。松は信玄を迎えたときにひと言挨拶の言葉を口にした以外は、ほとんどなにも語らなかった。口を開けば、なにか烈しい言葉が止め処なく噴き出してしまいそうだったからだ。あまりにぎくしゃくした雰囲気のなか、その最後に信玄が苦し紛れに絞り出した

「いずれ、良縁もあろう」

 という言葉は、五郎盛信が窮して松に掛けた言葉と全く同じであった。それは松にとって信玄との関係修復を不可能にする決定的なひと言であった。そして信玄は、松の縁談を自らの所業によって粉砕した挙げ句、遠く三遠まで攻め込んで、陣歿したのである。

 父が死んだと聞いて松は秘かに期待した。信玄の跡を襲った勝頼が、代替わりに際して織田家との外交関係を見直すのではないかと期待したものであった。そうなれば縁談は一気に進み、紆余曲折をはしたけれども結果として元の鞘に収まることが出来ると松は考えたのだ。しかしそれはひとり松の願望にとどまるもので、武田が代替わりしたからといって松の身辺になにか変化があったのかというと、そのようなことは一切なかった。それどころか勝頼は、北三河長篠城郊外において織田徳川連合軍と大いくさに及んだというのだ。松にとっての懸案は、その織田徳川連合軍中に信忠は在陣していたのかということと、そうであってもなくても、信忠との縁談はこれでますます遠のいたということだけであった。武田が大いに敗れ宿老、軍役衆の多数が討ち取られた、という話は、松にとってはどうでも良いことであった。否、むしろそのまま織田家に甲斐まで攻め上ってもらい、信忠に迎えに来てもらいたいものだとすら思った松であった。

 松にとって、自分を巡る問題を解決しようとしないどころか事態をますます複雑化させる勝頼は、少なくとも幼いころに自分を抱き上げて頬ずりしてくれた父信玄よりも更に縁遠い存在であった。その勝頼が上座に座しながら

「府第を出る運びとなった。韮崎に城を新築中であるが、作事が進まぬ故、しばらく高遠城に住まわれるがよい。慣れぬ生活を強いることになるが、そなたの実兄五郎を高遠に配することとした。心易く過ごすことも出来よう」

 と声を掛けてきても、それが真心から発せられた言葉とは、松にはどうしても思われなかった。ともすれば

「私を人質にしてまでも、織田家の鋭鋒を躱したいのですか」

 という皮肉が口を衝いて出てきそうであった。なので松は例によってだんまりを決め込み、勝頼がその真意を知ることがなかった。

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