高天神城包囲(一)

(全く難儀なことよ)

 岡部丹波守元信は、自らが拠る高天神城をぐるりと取り囲むように築かれた無数の城砦を見渡して、溜息を吐いた。高天神城を取り囲んでいるのは城や砦だけではなかった。これら城砦郡の合間合間には木柵が立てられ或いは虎落が結われて、徳川方の番兵が一間(約一九〇センチメートル)に一人、配されているという徹底ぶりである。このために高天神城は徳川勢による完全な包囲下に置かれ、文字どおり蟻の這い出る隙もない重囲に陥ったのであった。

 これら高天神城を取り囲む徳川の城砦の初見は、昨天正七年(一五七九)十一月であった。このとき勝頼は、腹背に氏政、家康の攻撃を受けるという危機にあって類い希な統率力を発揮し、氏政を沼津城に釘付けにした後、駿府に取って返し家康を追い払う大車輪の活躍を見せたのであった。

 家康は当面身動きが取れないとばかりに思っていた武田勝頼が案に相違して取って返し、反撃を加えてきたことに驚き慌てた。勝頼本隊との遭遇を避けて早々に遠州に引き返している。勝頼が示した武勇は近隣に響き渡り、三方に諸敵を抱え危機が唱えられていた不安を一挙に吹き飛ばしたのである。勝頼はこの隙に高天神城に糧秣及び武器弾薬を運び込むことに成功したのであるが、上州或いは駿豆国境で対北条戦に走り回る勝頼に、再度高天神城を後詰する余力はなかった。勝頼による後詰から既に一年が経過していた。この間、あれよあれよという間に、徳川方による付城つけじろ築城が進み、最初は一つ二つだったものが、いつの間にやら大規模な城が六つ、砦に至ってはその数を数えることすら煩わしいほどにまで増えていた。

 そのことを考えると岡部丹波は

(御屋形様の後詰を得た直後に討って出ておれば、このようなことにはならなかったであろうに)

 という後悔を抱かないではいられなかった。実際、こういった事態に至ることを恐れて、岡部丹波は城外戦に討って出ることを検討したことがあった。その軍議の席で、岡部丹波は諸将に対し

「余力のあるうちに討って出ようと思うが」

 と諮問すると、皆口々に反対した。軍監横田甚五郎尹松ただとしなどは

「討って出るとなると、近辺の小山城や滝堺城と連絡を取り合わなければ成りがたい。しかし最近は城外に徳川のかまり(忍者)が跋扈ばっこして連絡は容易ではありますまい」

 と、これに反対した。

 確かに横田甚五郎のいうとおりであった。家康は高天神城を標的と定め、城への出入りを徹底して取り締まっている状況であった。このために物資の搬入はおろか、近隣の諸城への連絡すら途絶してしまっていた。岡部丹波が切り出した城外戦は立ち消えとなった。これとて城砦郡の完全包囲に陥るより前の話であった。

 岡部丹波はこのとき城外戦に出なかったことを後悔するたびに、決まって

(付城の一つや二つ抜いたところで、この重囲がどうなるものでもなかったであろう)

 と、その後悔を振り払った。

 三方に敵を抱えて文字どおり東奔西走を強いられていた武田とは異なり、家康は遠江の武田さえ相手にしておればそれで足りた。家康は現下、国力の全てをこの対高天神城戦に投入できる状況にあったのである。付城の一つや二つ破却したところで、また新たに築城されるだけの話であった。

(あのとき、無駄に討って出てることを控えたゆえに、城兵を損なわずに済んだのだ)

 岡部丹波は強いてそのように考えた。

 岡部丹波はこれまでとってきた対策の一つひとつは、決定的な誤りではなかったのだと信じるようにしていた。そうでもしなければ日々細ってゆく糧秣と不安のために、頭がおかしくなってしまいそうであった。多くの侍がそうであるように、危機に陥っていた岡部丹波を内面から支えていたものは過去に打ち建てた自らの武勲、それに裏打ちされた武士としての誇りであった。しかしこれとて、無条件に諸手を挙げて誇れるというものではない。岡部はそのように考えていた。

 岡部丹波の誇る武勲とは、今を遡ること二十年前の永禄三年(一五六〇)五月におこなわれた、桶狭間の戦いに付随する戦いであった。当時、対織田家の最前線である鳴海城に配されていた岡部丹波は、圧倒的大兵力を以て尾張に侵攻した主君今川義元が桶狭間村において頸を獲られたとの敗報に接した。これが、諸手を挙げて誇ることが出来ない所以なのであったが、兎も角も岡部丹波は敵中に孤立する形となり、戦勝の勢いを駆った織田信長の包囲下に置かれることとなった。しかし岡部丹波は後詰のない籠城戦をしぶとく戦った。根負けしたのは信長の方であった。信長は岡部丹波に開城退去を求め、岡部は信長に交換条件として城兵の武装を解除しないこと及び義元の頸の変換を求めた。岡部の忠義と武道に感じ入った信長はその両条件を飲んで、岡部勢の開城退去を見届けたのである。その後岡部丹波は

「手柄なくして駿河に帰るを潔しとせず」

 と唱え、手勢僅か百名で刈谷城の水野信近を討ち果たしたのであった。

 この、戦史上稀に見る大敗の中で、どこの誰にも敗北しなかったことが岡部丹波を支えている誇り、武勲なのであったが、岡部はその武勲を誇りながらもなお後悔に苛まれた。

 それは、

(あの折に、信長を討ち果たしておけばよかったのだ)

 という後悔であった。

 岡部勢が鳴海城を退去する際、織田信長はその様子を確かに確認検分していた。お互い名乗りを交わしたわけではなかったが、少なくとも岡部自身はそのように信じていた。旗本衆によってひときわ厳重に護衛され、古式然とした大鎧に身を固める薄髭の若い武将がそこにはあった。大仰な甲冑と、どこか間延びしたような顔貌との対比が滑稽に見えたが、その発する雲気は、しかつめらしい威厳を殊更前面に押し出す他の誰よりも威厳に満ちたものであった。岡部丹波はそれが何者か敢えて問わなかったが、あの間延びした顔の、若い武将こそ織田信長その人だと信じて疑わなかった。岡部丹波は間違いなくあの時、手を伸ばせば届くところまで織田信長に接近したのだ。もし退去の約束を違えて攻撃の采配を振るっていたならば、信長を討ち取ることは柿の実をもぐより容易い距離であった。あの時躊躇することなく信長を討ち取ってさえおれば、今川家が武田に併呑されるようなことはなかったかもしれない。よしんば併呑されたとしても、少なくとも家康は信長の支援を受けることが出来ず、高天神城がこのような重囲に陥ることもなかったかもしれなかった。二十年前のまだ青かった自分が、鳴海城の開城退去に際して要らぬ義侠心を発してしまったがために、信長は今や十数カ国の分国を安土城の外郭として構え、全く岡部丹波の手が届かないところへ行ってしまったのである。

 このようであるから岡部丹波は自らの武勲を誇ることも、この籠城戦中やめてしまった。岡部丹波は、目の前の状況を打開する方策以外には、もう何も考えないようにした。何かを考えたとしても、押し寄せてくるのは後悔ばかりだったからだ。

 俄に

「敵襲!」

 と呼ぶ声が聞こえた。次いで、三の丸から激しい銃声が聞こえてきた。しかし岡部丹波に動揺の色はない。岡部丹波は銃声を尻目に、本丸へと引っ込んだのであった。

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