岩村城の戦い(三)

 話は少し遡る。勝頼が駒場において、春日虎綱の出迎えを受けた後のことである。虎綱は、軍主力の過半を失う大敗北に接し、改革案を勝頼に具申した。具体的には


一、北条氏政の妹を勝頼正室として迎え、北条家との同盟を入魂のものとすること

一、北条家に駿河、遠江を割譲し、協同して織田徳川の当たること

一、穴山信君と典厩信豊を切腹させ、敗軍の責任を取らせること

一、木曾義昌を木曾郡から上野に国替えし、代わりに上野の小幡を木曾郡に入れること

一、戦死した譜代重臣の子を近習として登用し、預けていた同心を勝頼が運用すること


 という五箇条であった。

 中には駿河遠江の割譲など、荒唐無稽ともいえる献策を含んでいるが、北条とのより強固な同盟関係構築を指向している点ではそれも理解できるものであり、「甲陽軍鑑」に記されたこのくだりも、あながち虚説とは言い難い。というのはこの時期、紀伊国興国寺に滞在していた征夷大将軍足利義昭が、自らが取り成して甲相越三和交渉をまとめようという動きを見せていたのは歴史的事実だからである。春日虎綱による、北条との同盟強化を指向する献策は、義昭による三和交渉を受けてのものだった可能性が高い。まさにこの時期、三者の間で和睦に向けた交渉が進められていたのである。

 岩村城では、信忠による本格的な攻撃に先立ち路次の封鎖と物資の買い占めによる兵糧攻めがおこなわれていた。勝頼の後詰を得なければ落城は必至の情勢であり、虎繁は甲斐に向けて矢の催促であった。

 それに対して武田家が岩村城に寄越した弁明が、

「現在、岩村城を後詰するために北条氏政と協議中である。もし協議が成立すれば甲相打ち揃って後詰に押し寄せ、信忠の包囲軍を撃ち破るであろう。そうなれば上洛の道までも開かれるに違いない」

 という、天正三年(一五七五)七月十九日付典厩信豊及び小山田左兵衛尉信茂連署の弁疏状であった。

 兵糧が日々細っていく中、虎繁はこの書状を籠城衆に示しながら

「見よ、本国からの書状だ。いまに甲相の軍兵が怒濤の如く後詰に押し寄せてくるだろう。そうなれば敵の包囲陣は崩壊し、戦勝は疑いがない。したがって頑張れ」

 と励ましたが、その実虎繁は書状の内容については半信半疑であった。確かに甲相越三和交渉がこの時期におこなわれていたことは事実であったが、それはなにも岩村城後詰を目的とするものではなかったし、第一勝頼がようやく編成し終えた新たな武田の軍団を派遣する先に定めていたのは、遠州小山城であった。そして新たな武田の軍団とは言い条、それは例えば筑摩郡小池郷、草間官兵衛の次男で、これまで芝(戦場)を踏んだこともない草間三右衛門尉のような心得を欠く人々を寄せ集めて急遽編成した軍団に他ならず、岩村城を取り囲む歴戦の濃尾の兵を相手にいくさ出来るような代物では到底なかった。

 八月に入り、勝頼の後詰が遠州に入ったという報せを聞いて、岩村籠城衆の落胆は甚だしいものがあった。籠城衆のうちの何人かは、この報せを受けて

「御屋形様は岩村城に後詰を寄越してくれるのではなかったのですか。甲相打ち揃って雪崩れ込むという話はどうなったのですか」

 と詰め寄る者もあり、なんとかなだめすかした虎繁も、いよいよ

(降伏、開城も考えねばならん)

 と思うようになっていた。

 ただ、それでも虎繁は抗戦を諦めるということはしなかったし、城方にも全く希望がないということもなかった。というのは、先に織田方は物資を買い占めて兵糧攻めを敢行したと陳べたが、実はこの包囲網に穴があったのである。岩村城が支配領域を接する水野信元の知行地において、紛れ込んだ岩村籠城衆に対し物資を横流しする者があったという。無論、物資が不足している時節であって、米や麦などは平時では考えられないほど高騰していたが、背に腹は代えられぬ。岩村籠城衆は城内の銭が払底してでも、手に入れられる先から食糧を購入して籠城戦を戦った。

 なおこの物資横流し事件は、戦後佐久間信盛によって問題化され、水野信元は織田信長によって誅殺の憂き目を見ている。

 さて包囲の織田勢は、このように包囲網に穴があったことにしばらく気付かず、

「いよいよ頃合か」

 と見做して総掛かりを命じた。十月も下旬に入ったころのことであった。総掛かりにあたり、河尻秀隆などは

「既に包囲攻城五箇月、並みの城であれば疾うの昔に陥落して然るべきところ、全くそのような気配がありません。これは城内に未だ相当の秣糧が蓄えられている証拠。総掛かりの儀はいましばらく待たれたが良い」

 と、経験の浅い信忠に進言したが、

「いやしかし、季節は秋口を越え冬に至ろうとしている。このまま包囲を継続すればこの地特有の降雪に見舞われ、危機に陥るのは寧ろ我々の方である。ここはひとつ、敵方も消耗しているものと見越して総掛かりするのも一つの策ですぞ」

 と反駁する者もあって、決断は信忠に委ねられた。

 父信長に認められたい信忠は果断にも総掛かりを決意し、ここに堅城岩村への強攻こわぜめが敢行されるに至る。

 織田方は、それぞれ鈎縄を手に急峻な山肌をじわりじわりと登ってゆく。遂に敵の総掛かりかと肚を括った城方も、矢弾を取り揃えて迎え撃つ体勢である。寄せ手の一が、鈎縄を放り投げて城の柵に絡めることに成功した。城方はこれを鑓で切断し、引き倒すことを許さない。いよいよ敵が間近に接近したとき、城方は一斉に矢弾を放った。辺り一面に硝煙の臭いが立ち込める。斉射を受けた織田方の先手には死傷者が多数出た。

 しかし城方はこの犠牲も織り込み済みであって、続々と新手を繰り出してくる。矢弾が間に合わぬとみるや、城方は投石によって防戦を試みるが、蹴落としても蹴落としても、次から次湧いて出て来る寄せ手を押し止めることが出来ず、三の丸の柵は遂に引き倒された。城方は防戦能わずとみて二の丸へと撤退する。

 この日の戦いでは城方に伴野三右衛門尉、牛牧甚三郎、米山惣左衛門尉等大身の将が討たれたし、寄せ手は寄せ手で死傷者多数であって、これ以上の攻勢を維持できないほどの損害を蒙ったようである。

 しかし、なんとか三の丸を奪取した寄せ手の士気は昂揚しており、この攻勢の三日後、今度は城方が逃げ込んだ二の丸への攻撃を開始した。この攻防戦も熾烈を極め、籠城衆の副大将ともいえる座光寺三郎左衛門尉をはじめ、座光寺左馬尉さまのじょう、伴野三郎左衛門尉が討死うちじにして、城方はいよいよ危機に陥った。

 そのときである。

 籠城衆は、城を構える同じ山間に、味方の出現を告げる割菱わりびしの旗を見た。それは、夢にまで見た武田の後詰が押し寄せてきた何よりの証拠であった。

「勝った! 甲相両国の兵が続々と押し寄せてくるに違いない。勝ったぞ!」

 城兵は口々に叫んで喜んだが、武田の後詰はそれ以上に数を増やすこともなかったし、水晶山に陣取る敵本陣に押し寄せるということもなかった。

「あれは、張り子の虎だ」

 遠目に甲軍の後詰を眺めながら、虎繁は呟いた。

 後年の大坂の陣や、小田原の役の帰趨を見るまでもなく、城というものはどんなに豊富に物資を取り揃えていても、またどんなに防備に優れていても、後詰がなければ遅かれ早かれ陥落は免れないものである。境目の城に在番するということは、敵方に攻撃される危険を伴うということなのであり、そういった城に在番を命じる以上、そこが包囲されたとしたら大名としては後詰を寄越すことが当然の義務と考えられていた時代である。もし後詰を怠れば、

「殿様は兵には在番を命じておきながら助けにも来ない」

 として下々から見放されるからで、そこが大名の苦しいところでもあった。

 岩村城に後詰に寄せた武田方はどう多く見積もっても、ようやく千人に達する程度の人数であった。典厩信豊や小山田信茂が事前に約束していた甲相の連合軍とはほど遠い小勢といわざるを得なかった。しかしそれでも武田家としては

「後詰は出した」

 という弁明は出来るわけである。

 山間にまばらに立つ割菱の旗を目にした虎繁は、如何におつやの方が反対したとて、降伏開城することも視野に入れなければならぬと本気で考えるようになっていた。

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