天目山の戦い(三)
「女の志とはなんぞ」
勝頼は林に問うた。
母於福のように強い女性が世にあることを知らぬ勝頼ではなかったが、そういった強さとは縁遠いところにいるとばかり考えていた妻が、強い口調で志という言葉を口にしたことは、勝頼にとって意外なことであった。林はその、意外そうな面持ちの勝頼に言った。
「御屋形様はこの場にて戦って、しかる後に腹召させられるお心づもりとお見受け致しました。私は女の身、刀をとり、或いは鑓を振るって戦う術を知りません。いくさで御屋形様のお役に立てると思うほど私は愚かではありません。このうえは、これより死闘なさろうという御屋形様の足手まといにならぬよう、先に自害して果てようという志です。法華経の五巻には、
そうまで言うと、勝頼は少しの間きょとんとした表情を見せたあと、突如として呵々と大笑しはじめた。
「なにが可笑しいのです。私は本気です!」
林は示した覚悟を嘲われたように思い、顔を真っ赤にして怒った。
「許せ、室よ。変成男子とは汝の言う、男のような心を持った女人を指すのではない。女の身では成仏が困難であるから、一旦男子の身となった竜女の故事を指していうのだ」
勝頼がそう言ってなおも哄笑するので、林は恥ずかしそうに俯きながら
「そ、そんなに笑わなくたって・・・・・・」
と、着物の裾を握りしめながら呻くように言った。次に林が目にした勝頼の表情はしかし、真剣そのものであった。
「笑ったことは許せ。誤りとは申せそなたの志、嬉しく思う。その志を聞くことが出来ただけで、今生の思い出となろう。兎も角も女の身で自害など不要。余はこれより最後のいくさに臨む。そなたは侍臣と共に落ち延びる手筈を調えるがよい。落ち延びてこそ、余の足手まといにならぬものと心得よ」
そう告げると、決然座所を立って表へと出て行ったのであった。勝頼が出て行ったあと、林もまた座所を抜け出した。勝頼最期の戦いを、その眼に焼き付けるためであった。
田野に陣取った勝頼の許に、意外な男が駆け寄せた。跡部長坂等と幾度か喧嘩に及び、勝頼に蟄居を命じられていた小宮山内膳であった。人々が危急の勝頼を見捨てる中、蟄居を命じられた身でありながら忠節を尽くそうという小宮山を、みなは賞賛した。勝頼は小宮山内膳に参戦を許し、彼を水野田に配した。
鳥居畑には穐山紀伊守、そして勝頼本陣に太郎信勝、大龍寺麟岳和尚、跡部尾張守勝資、本陣近くに遊軍として土屋惣蔵昌恒等をそれぞれ配置して、戦いに臨んだ。
勝頼在所を発見した滝川一益一隊は、彼等を待ち受ける武田勝頼の陣容をどのように見たであろうか。旌旗を並べ鑓の穂先を揃え、威容を放ちながら待ち構えているものとばかり考えていた武田の一隊が、十指にも満たぬ小勢をそれぞれ数箇所に、ぽつりぽつりと配置している様は、むしろこの先になにか罠でもあるのではないかと思わせるほどであった。このようであるから、滝川の兵達は小勢だからと敵を侮ることはなかった。滝川一党は日川の流れを防壁にして構える小宮山内膳の陣に対して、あの程度の小勢にそこまでと思われるほどの矢を射かけた。
勝頼の眼前にて忠節を尽くした戦いを見せるのはこの時をおいて他にない小宮山内膳とその指揮下の侍衆は、
双方があまりに多くの矢を射ては、これらが地に突き立てられたので、後年この古戦場を指して「矢立」と称するようになったという。
小宮山内膳は麾下の侍に続いて敵陣に斬り込み、勝頼に自らの忠節を貫いて戦死した。
小宮山内膳が時を稼いでいるの間、勝頼は穐山紀伊守と土屋惣蔵昌恒を召し出して、御座所にあるはずの林に伝言した。
「重ねて申しつける。女の身で自害など不要である。疾く、相模に向けて落ち延びよ」
という伝言であった。しかし林にその気はない。相模行きを頑として拒否する林に、遂には穐山紀伊守も土屋惣蔵も焦れて、それぞれの持ち場へと帰った。
小宮山内膳を屠って日川を渡った滝川勢に、穐山紀伊守は挑み掛かった。穐山紀伊守は敵方をよく防いだが、滝川一益家臣菅沼又五郎によって討ち取られた。
一方天目山上からは、勝頼を見限った穐山摂津守昌成と甘利左衛門尉、大熊備前守が勝頼本営に襲い掛かった。本営の危機とみて、いの一番にそこを逃げだそうとしたのは
「御家滅亡の元凶!」
怒号と共に放たれた矢は過たず跡部の胸を貫いて、彼はどうっと落馬した。土屋惣蔵が跡部の頸を掻くような無駄な所業に及んだのは、武田家を滅ぼしたのは汝だ! という怒りを晴らさんがためであった。
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