三和交渉(一)

 このころ、景勝と景虎の争いが諸方で繰り広げられるという越後の錯乱ぶりは相変わらずであった。三右衛門尉等小池郷の人々はいつ終わるとも知れぬ錯乱が見舞う越後から武田首脳部が帰還するのを辛抱強く待たなければならなかった。

 上杉景勝が上州の北條芳林景広父子に宛てて

「勝頼が我等に合力した」

 という書面を送ったことは前述した。

 北條父子はしかし、この書状を景勝の虚言と断じて景虎方として立ち回り、六月の下旬、景勝の本拠地であった越後上田庄に攻め入っている。上州沼田城将にして景勝方の上野家成はまた、北条勢が越後に侵入した旨を景勝に注進した。東方之衆との対陣が収束し、遂に北条勢が景虎支援に動き出したのである。恐らくこのころまでに景勝方の荒戸、直路、樺澤といった諸城は北条方による包囲攻勢にさらされていたのであろう。景勝は荒戸城に登坂与右衛門尉安忠を派遣して、同城に籠もる深沢利重並びに富里三郎左衛門と協働して北条に備えるよう申し含めている。

 景勝が最も恐れたのが北条の越後侵入であった。

 諸勢力が錯綜するなか、勝頼もまたこのような混乱と無縁ではいられなかった。なんとか景勝景虎の和睦を斡旋しようと躍起になっていたのである。これを成立させるために景虎陣中に派遣した使者が戻らないので、景虎の許に派遣した使者が到着したか否かを問い合わせる景虎宛勝頼書状が残されている。酷い混乱の中で、派遣した使者が景虎陣中にたどり着けなかったのかと心配しての書状である。

 武田の混乱ぶりを物語る動きは上州でも見られた。真田喜兵衛尉昌幸は上州攻略の策を巡らせていた。これは正式に勝頼の下命を受けての動きではなかった。真田家も桃井将監や市川信房と同様に知行地拡大の出口を失って貧窮していた。越後錯乱に乗じて上州方面に領土を拡幅しようと目論み、独自に動いていたのである。上杉領、ことに上州は武田、北条、景勝、景虎そしてそれぞれの国衆の思惑が絡み合って、辺り一面草刈り場の様相を呈し、修羅場となっていた。その中でも喜兵衛尉昌幸の動きは活発であり、この方面で昌幸によるどさくさ紛れの領土拡大を危ぶんだ北条氏政は、勝頼に宛てて

「真田の動きを規制するように」

 と求める書状を発出している。

 勝頼は氏政の要請を容れつつ真田の調略が順調であったことを惜しみ、

「取った労を多とするが、これ以上の領土拡大は自重せよ」

 と手綱を引いている。

 手取川において謙信に痛撃された信長の許にも、謙信の死とそれに次ぐ越後錯乱の報がもたらされていた。信長にとっては失地回復のまたとない好機である。越後錯乱のために勝頼が越府に出陣しているという情報も信長は摑んでいた。信長はその情報を家康の許に回送した。勝頼の動きを摑みかねていた家康に武田の越府出陣を報せて遠州方面での軍事行動を促す目的であった。これは信長が言外に

「勝頼は甲斐に不在なので遠州の武田を攻めよ」

 と家康に命じたものであり、家康は高天神城に対する付城として横須賀城築城に着手した。

 家康が遠州方面で蠢動しているとの情報を大磯からの注進で知った勝頼はいよいよ焦った。景勝景虎の和睦を早急に成立させなければ遠州が危うい。景虎の許に二度までも使者を遣ったのはこの焦りがあったからだ。勝頼は越府に在陣して景勝景虎双方に軍事的圧力をかけながら、両者にその代表者を寄越して和睦交渉の席に着座するよう強く促した。

 既に武田との和睦が成立していた景勝は、勝頼が目指す自分と景虎との和睦周旋に抗う意思も能力も失っていたので、既定路線としてこれに応じたものであるが、一方の景虎はこのとき、実家の北条氏が小川台を引き払って遂に越後に侵入する好機にあって、全体として優勢であった。この期に及んで景勝との和睦に応じる理由がない。勝頼からの使者は景虎の許に確かに到着してはいたが、味方だとばかり考えていた勝頼が越府から動かぬばかりか景勝との和睦周旋の使者を送り込んできたことに困惑し、返答を決めかねていたのであった。

 しかし景虎は焦る勝頼から

「和睦交渉に応じないなら撤退する」

 と恫喝を受けた。

 北条は越後に乗り入れはしたが、上越国境の景勝方諸城が頑強に抵抗しており主戦場たる越府近辺に到達出来ないでいた。この状況で勝頼が撤退してしまえば、せっかく有利に推移している戦況がどう転ぶか知れたものではない。景虎は依然として勝頼が自分にのみ味方する者と信じていたのである。勝頼からの書状を得て、訝しみながらも遂に景虎は和睦交渉に応じることを決定し、景虎派重鎮ともいえる上杉光徹を全権として和睦交渉の席に送り込んできた。対する景勝方からは山浦国清、武田からは跡部大炊助という面々である。

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