天正改元(二)

 このころの足利将軍家の朝廷対策は明瞭である。内裏御修理や即位大礼など、朝廷からの費用工面の要求に対しては将軍家としてではなく各地の大大名に肩代わりさせ、改元など面倒な行事は出来るだけ先延ばしにする、というものであった。よく知られているように、三代将軍義満は朝廷いては天皇の権威を徹底的におとしめようと画策した。叛旗を翻した家臣については朝敵として指定することなく足利家の私敵として討伐したことが何よりの証拠である。義満は天皇家から兵馬の権をまったく奪い去ってしまおうと画策していたのだ。

 天皇家に超越しようとした義満ほど確信犯的ではなくても、とかく金のかかる朝廷行事からは一歩引いて、是々非々で付き合っていく、という幕府の方針は、朝廷そのものや朝廷の影響を強く受ける寺社勢力から不誠実な態度と批難されることもしばしばであった。信長も幕府のこういった態度は腹に据えかねていたらしい。

 幕府の朝廷に対する不誠実な態度として代表的なのが、天正改元に至る経緯である。

 永禄十三年(一五七〇)四月下旬、朝議により元亀へと改元が執り行われた。無論、将軍家(即ち織田信長)から用途献上がなされてその目途が立ったからである。

 同年十一月、理由は不明ながら義昭から朝廷に対し、再度改元が建言されている。だが義昭は建言するばかりで自ら費用を負担しようとしなかったらしい。改元話は立ち消えとなった。

 元亀三年(一五七二)冬頃、信長から義昭に宛てて、有名な十七箇条の意見書が突き付けられる。両者の決裂を決定的にしたと評される意見書である。

 信長はこの十箇条目において


元亀の年号不吉に候あいだ、改元然るべきの由天下の沙汰に付て申し上げ候。禁中にも御催しの由候ところ、聊かの雑用仰せ付けられず、今に遅々候。これは天下の御為に候ところ、御油断然るべからず存じ候こと。


 と、義昭に対して諫言している。

 元亀の元号は不吉で、天下の人々も改元を望んでいる、朝廷でも実行の動きがあるのに金を出さないので今に遅れている。天下の為なのだから油断なくおやりなさい、といったくらいの意味である。

 結局義昭は改元に着手しないまま信長と決裂し、京都から追放されることとなるのであるが、信長は即座に改元の用途を献上し、元亀四年(一五七三)は七月二十八日を以て天正元年に改元されるに至る。

 余談ながら天正という元号は、文選もんぜん耕籍こうせき籍田賦せきでんのふ及び老子の洪徳第四十五からそれぞれ採られている。

 即ち前者からは


 高以下為基

 (高きは下を以て基と為し)

 民以食為天

 (民は食を以て天と為す)

 正其末者端其本

 (其の末を正さんとする者は其の本をただし)

  善其後者愼其先 

 (其の後を善くせんとする者は其の先を慎む)


 という一節から。

 後者からは


 清静可以為天下正

 (清静なるは、天下の正と為る)


 という一節から、それぞれ「天正」の元号が採用されたものであった。

 信長が用途を献上して改元に至った事実は、費用さえ捻出してくれれば庇護者は誰でも良いという朝廷の姿勢をはしなくも示すものであった。

 いずれにしても前後の時系列から将軍抜きでの改元が執行されたことは間違いなく、その実効性に疑いがあったためか、甲斐武田家では同年十二月まで元亀の使用を継続している。

 信玄死去の情報を摑み損ねたことで将軍義昭は再び流浪の身となるわけであるが、将軍不在京など頻繁に出現する一過性の政治的現象に過ぎず、当代の人々がこれを以て幕府が滅んだなどとは考えもしなかったことだろう。

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