第27話 涙を失くして

 わたしはそして、涙を失くした。

 もう泣くことはない。二度と。そう、こころに決めた。



 大好きだったひととお別れをした。別れを告げたら、あのひとは人目も気にせずに泣いていた。「ごめん」と言われた。わたしは「さよなら」と言って、泣いているあのひとを置いて、立ち去った。

 涙が。

 涙が溢れて溢れて、止まらなかった。わたしは涙をぬぐうこともせずに、足早にヒールの音を響かせて歩いた。

 さよなら。大好きなあなた。どうか、幸せに。


 *


 彼には、長く入院している妻がいた。

 わたしはそんな彼のことを、好きになってしまった。彼も、わたしのことを好きになってくれた。秘密の恋。誰にも言えない恋。

 彼が音楽について話すのを聞くのが好きだった。妻がいない彼の家で、わたしは彼が集めたレコードの古い音色を聴く。音楽を聴き終わったあと、彼はその曲がどのようにして出来たか、どんなところが素晴らしいか、熱っぽく語った。そんな彼を見ているのが好きだった。

 彼の妻は、退院は難しいと思われた。だけど、すぐにどうにかなるようなそういう病でもなかった。


 彼は、日曜日は病院に行く。わたしは、金曜の夜と土曜日を彼と過ごす。

 彼が妻と抱き合ったであろうベッドで、わたしは彼と抱き合う。狭いベッドでいっしょに眠るとき、ほんの少し罪悪感が滲んだ。だけど、彼のぬくもりを求める気持ちの方が勝ってしまった。やさしくて静かな、彼とのセックス。

 このまま秘めたまま、わたしは彼との恋がずっと続いていくような気がしていた。



 だけど、思わぬところから衝撃は訪れた。

 実家に行ったとき、母が突然言ったのだ。

「香澄。不倫に未来はないわよ。どんな状況でも」

 わたしは「不倫なんてしていないわ」と言うので、精一杯だった。

 母はわたしの顔をじっと見て、「そう。それならいいのよ。……緑茶、飲む?」と言った。


 緑茶は味がしなかった。そしてそのあと、そそくさと実家をあとにしてしまった。

 彼が妻と別れないことは分かっていた。それに、わたしは妻をたいせつにするあのひとが好きなのだ。もし、彼が妻と別れてわたしと結婚しようとしたら、わたしは彼のことを好きではなくなっていただろう。なんという矛盾した心理。



 部屋で彼と聞いた音楽を聴いた。CDから流れるその曲は、レコードよりも妙にきれいだった。レコードの針の音。ときどきぷつっという雑音が混ざるメロディ。だけど、優しくやわらかくこころの襞に入って来る、音。


 気づいたら泣いていた。ヘッドフォンからは荘厳なメロディが流れる。わたしは涙を流す。泣こう、一生分。そしてお別れをしよう。明日、会ったときに別れを告げよう。明日も泣くだろう。でも、そうしたら涙を流すのはやめよう。そして、今まで見ていなかった景色を見てみよう。

 昨日流した涙を忘れて。





  「涙を失くして」 了


  *ショートショートの連作で、10万字超の長編にいたします。

   1話ごとに読み切りの形式で、次話に続きます。

   毎日2回(7時、18時)更新。よろしくお願いいたします!

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