第36話 名前を呼んで

 どうしよう。

 あたし、あのひとを好きになってしまった。息子の家庭教師の若い彼を。

 爽やかな笑顔。さらさらの髪。細身の身体。……甘い声。そう、声。まず、声を好きになってしまった。


 もちろん、何もない。あたしは家庭教師をしてもらっている子どもの、ただのお母さんでしかない。でも、息子の和樹の勉強の状況を説明してくれるとき、まっすぐにあたしを見つめる目。どきどきしてしまう。お月謝袋を渡すとき、手が触れる。あたたかな指先。

「では、また来週。香苗さん」

「また、来週、お願いします」

 あのひとはあたしの名前を呼ぶ。


「僕、家庭教師をいくつかしていて。全部『おかあさん』だと分からなくなるので、名前で呼ばせてください。苗字だと息子さんと同じだし」

 名前。

 もう誰もあたしの名前を呼ばない。

「おかあさん」「和樹くんのおかあさん」それがあたしの呼び名。

 名前を呼ばれて、息が止まりそうになってしまった。あの、あの甘い声があたしの名前を呼ぶ。


 名前を呼ばれた瞬間、あたしはあのひとが好きになってしまったのだ。

 でも、ただ好きなだけ。

 それだけ。

 どこへも行かない思い。誰にも言えない気持ち。ただ、好きなだけ。


 一週間、あのひとが来るのをただ、待つ。待っているのも楽しい。その日、インターフォンが鳴って、応答をする、その喜び。玄関を開けて迎え入れる嬉しさ。スリッパを出す。一言二言、小さな会話をする。あの甘い声で応えてくれる。こころが震える。

 一階で、あのひとが和樹と勉強をしているのを、じっと静かに待つ。静かにしていると、ときどき声が聞こえてくるから。この時間が一番幸福で一番切なく悲しい。だって終わりが近づいて、あのひとは帰ってしまうのを知っているから。


 もうすぐ終わりの時間だ。

 足音がして、あのひとと和樹が二階から下りてくる。

「きょう、ぼく、頑張ったよ!」

 和樹があたしに抱き着いてくるので、受け止める。

「そう! えらかったわね」

「今日は和樹くん、予定よりもたくさんの問題を解いたんです。もう、算数得意になったよね?」

「うん!」

「先生のおかげです、ありがとうございます」

「和樹くんの頑張りですよ」

「来週もよろしくお願いします」

「はい」


 ねえ。名前を呼んで? それだけでいいから。





  「名前を呼んで」 了


  *ショートショートの連作で、10万字超の長編にいたします。

   1話ごとに読み切りの形式で、次話に続きます。

   毎日2回(7時、18時)更新。よろしくお願いいたします!

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