第127話 可惜夜

「あたら夜の月をあなたと眺むればあはれならんや 影満ち満ちて」

「どういう意味?」

「月が明るくてきれいな夜、あなたと月を眺めているとしみじみといいなあって思うのよ。光が部屋中に満ちているでしょう。いつまでも眺めていたいわ。……っていうくらいの意味」

「ほんとうにきれいな月だ。いつまでも眺めていたいよ、君と一緒にね」

 将也は桐子にお酒の入った小さなグラスを差し出し、桐子はお酒を一口飲んだ。


「『あたら夜』ってね、可能の可に惜しむ夜って書くのよ。つまり、『惜しむべき夜』」

「僕は桐子と一緒なら、いつでも『可惜夜あたらよ』だ」

 そう言って将也は桐子にキスをした。桐子は将也のキスを受け留めながら、ほんとうにきれいな月だ、と思った。カーテンを開けた窓から、丸くて大きな月がきれいに見えた。

 群青色の空に光を滲ませているまるい月。欠けていない、まんまるの月。


「わたしたちは二人で一つのまるい月だね」

 桐子は言う。

「そうだね」と将也は答えて桐子を抱き締めた。

 桐子も将也も、欠落を抱えていた。傷つき過ぎて、もう決して埋まらない穴が心の中にあった。桐子は将也に出会ったとき、将也が抱えているその暗い穴の存在が分かったし、将也もきっと同じだったと思う。


「ねえ、『あたら夜』って、『新しい夜』みたいじゃない?」

 将也が言う。なるほど、と桐子も思う。

「ほんとうだ。『新しい夜』みたい」

 いつだって、新しい夜を始められるのかもしれない、と桐子は思った。

 惜しむべき、新しい夜の美しい月光が部屋に降り注いでいる。


「桐子、二人で生きていこう。僕たちは……僕たちだって、幸せになっていいはずだ」

「将也。もう期待して傷つくのは嫌なの」

「僕もだよ。だから、優しい気持ちで時間を過ごしていこうよ。この先、ずっと」


 月は次第に場所を変え、窓から見えなくなっていった。それでも月明かりは二人の部屋に満ちている。

「カーテンは閉めなくていい?」

「いいよ。まだ月明かりがきれいだから」

「紅茶、淹れようかな? 温かいものが飲みたいの。将也も飲む?」

「ありがとう、淹れてくれる? アールグレイがいいな」


 桐子はキッチンに行き、小さな銅鍋でお湯を沸かした。

 ティーポットに紅茶の葉を入れ、沸騰したお湯を入れる。砂時計を逆さにして砂が落ち切るのを待つ。桐子は落ちていく砂の中に、自分と将也の過去があるような気がした。黄色いきれいなさらさらとした砂のつぶ。音もなく落ちて積もり、他のたくさんの砂と同化していく。手酷く傷ついた思いもこの砂時計の砂のつぶと同じかもしれない。そこにある。しかし、いつの間にかさらさらと積もった砂のつぶと同化していく。なくなりはしない。けれど、もしかしたら、こうしていっしょに抱えていけるものかもしれない。


「紅茶、入ったよ」

「ありがとう、桐子」

「ねえ、二人で住むうちは月がきれいに見えるうちがいいな。ちょっと広いうちがいい」

 将也は受け取ったティーカップをテーブルに置いて、桐子を抱き締めた。


 砂時計の黄色いつぶと月の光のつぶは似ている。みんな、光の中に溶けてしまえばいい。





  「可惜夜」 了


  *ショートショートの連作で、10万字超の長編にいたします。

   1話ごとに読み切りの形式で、次話に続きます。

   毎日2回(7時、18時)更新。よろしくお願いいたします!

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