第26話 雪柳

 庭の雪柳が揺れて、私を手招きした。

 今、雪柳は満開で、白い小さな花を枝いっぱいにつけて誇らしそうにしている。私は雪柳の手招きに誘われて庭に出た。


 白い雪柳の下に、小さな黒猫がいた。

「どうしたの? 迷子?」

 黒猫は私の顔をじっと見て、それからすいと庭を横切って行ってしまった。

「待って!」

 私はなぜだから黒猫を追わなくてはいけないような気持ちになって、追いかけた。


 庭の隅の暗がりで、黒猫を見失ってしまった。

 どこかの飼い猫がお散歩していたのかな? 初めて見る猫だったけれど。

 あ。あんなところにも雪柳、植えたかしら? 庭の奥に白いものが見えた。


 よく見たら、白い服を着た、小さな女の子だった。

「あなた、どうしたの? お母さんは?」

 私はそっと手を差し出し、その子の頭を撫でた。黒髪は肩のところで切り揃えられ、揺れていた。幼稚園に入る前くらいの子どもに見えた。


 女の子は私の顔をじっと見た。私の顔を確かめるように。

「あのね、ごあいさつに来たの」

「あいさつ?」

「うん。あたし、もうすぐ別のところに行くから」

 女の子は私の胸にすとんと顔をつけてきた。

「あのね。ずっとありがとう」


 女の子はすっといなくなった。ひらひらっと白い雪柳の花が舞ったような気がした。


「ママ?」

 庭に面したガラス戸が開き、豊が私を呼んだ。

「豊」

「ママ、どうしたの? 何かいたの?」

「うん。黒猫が」

「ねこちゃんがいたの⁉」

 豊が裸足のまま、庭に下りようとしたので、抱きとめた。

 豊を抱っこしたまま、庭に行く。重くなったな。もう長い時間は抱いていられない。


「黒猫はね、あっちに行ってしまったの」

「そっかあ。ボク、ねこちゃん、見たかったな」

「うん、そうね。……それからね」

「……ママ?」


 たぶん、あなたの妹が。妹の雪が、さよならを言いに来たの。


 お腹の中で、消えてしまった命。私は悲しくて悲しくて、毎日泣いていた。エコーの写真を見て泣いていたら、そんなに泣いていたらいけなくなるよ、と夫に言われて、更に悲しくなった。お腹の中で命がなくなることはよくあることだ、と言われても、わたしは名前をつけて、この腕に抱くのをとてもとても楽しみにしていたのだ。


 わたしは豊を抱き直し、抱く腕に力を込めた。

 この重みとあたたかさを大切にしよう。

 そして、何年もここにいてくれたあなた。

 ありがとう。ほんとうにありがとう。

 今度は誰かの腕に、ちゃんと抱きしめられますように。


 雪柳が風に揺れていた。まるでさようならと言っているように





  「雪柳」 了


  *ショートショートの連作で、10万字超の長編にいたします。

   1話ごとに読み切りの形式で、次話に続きます。

   毎日2回(7時、18時)更新。よろしくお願いいたします!

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