第25話 音の羽
誰もいない昼間、わたしはピアノの蓋をそっと開いた。息子のピアノ。
ピアノを習っているのは息子。でも、わたしはピアノを弾く。習ったことはないから、幼稚園に通っている息子のピアノ教室のバイエルを開いて、息子が習っている曲を弾く。
一音一音、確認しながら弾く。右手と左手を練習したから、今日は合わせてみよう。
音が、響く。
音が、飛んでいく。
音が、部屋中に満ちて、わたしのこころを乗せて、遠くへ遠くへいく。
小さいころ、ピアノを習いたかった。でも、習わせてもらえなかった。代わりに書道を習わされた。書道は嫌いだった。墨が、手や服につくのが嫌だった。服につくと、黒い染みがついて、消えなかった。お気に入りの服は着て行かないようにしていたけれど、間違えて着て行ってしまうこともあった。そういうときに限って、墨が服についた。
黒いピアノから発せられる音が、わたしのこころを乗せて、飛んでいく。
過去へ未来へ。
服についた墨も、音符になって飛んでいくような気がした。
幼いころ、服について消えなかった墨が、音符になって高く高く昇っていく。
音には羽があって、どこまでも自由にいくんだ、と思う。
幼子のバイエルの、やさしくてどこか懐かしいメロディ。
わたしは、間違えないようにゆっくりと弾く。一曲一曲弾ける曲が増えていく喜び。明日はもっと楽しそうに弾けるようにしようと思う。何度も何度も同じ曲を弾く。すると、少しずつ上手に弾けるようになっていくのが分かった。
何回か弾いたあと、バイエルのページをめくり、新しい曲を弾こうかなと思う。
少し緩やかな曲であるようだった。
音符を読みながら、まず右手の旋律を奏でる。
リズムを刻みながら、一音一音確かめるようにゆっくりと指を動かす。
ピアノの澄んだ音色が好きだ。
新しい曲は、弾いてみると少し物悲しいゆっくりとした曲調だった。わたしの物思いが音符となって飛んでいく。覚えてもいなかった、小さいころの悲しみがふとこころに湧き起こり、それが音になって空へ昇っていくのだ。
ピアノを習いたかった。習字は習いたくなかった。友だちが口をきいてくれないときがあった。大事にしていた鉛筆を失くしてしまった。お母さんに怒られて、読んでいた漫画を捨てられてしまった。テストで悪い点をとってしまった。コンパスを忘れてしまって、一人だけ図形が書けなかった。待ち合わせの場所に行ったら、友だちがいなかった。
想い出は音色になり歌になり、わたしだけの曲となって、音の羽を持って広がり空間に満ち満ちて、閉めた窓ガラスや壁を突き抜けて、外へと飛んでいく。
過去のささくれも、でもそのときは本気で悲しかった涙も、みんな音符となって空へいき空に溶けていく。
音が、響き、飛んでいく。
音が、悲しみを旋律にしていく。
ふと時計を見ると、息子を迎えに行く時間になっていた。わたしはピアノの蓋をそっと閉めた。
「音の羽」 了
*ショートショートの連作で、10万字超の長編にいたします。
1話ごとに読み切りの形式で、次話に続きます。
毎日2回(7時、18時)更新。よろしくお願いいたします!
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