第22話 夕焼け

 薄紫色の空が地に近づくに従ってしだいに色を失い、乳白色となる。不思議な夕焼けだった。世界が薄紫色に包まれていた。


「きれいだね」

「え?」

「空」

「ああ」

「きれいな夕焼け」

「ほんとだ」


 わたしたちを乗せた列車は、人はまばらで、なんとなく満ち足りた夕方の時間を湛えていた。夕焼けの光が列車内を満たしていた。


「今日、楽しかったね」

「うん」

 わたしは彼と手をつないでいた。車窓から紫の夕焼けを見ながら。

 列車は優しい音を立てて、駅へと向かっていた。このまま、ずっと揺られていたいような、この瞬間が永遠であって欲しいような、そんな絶対的な幸福感がわたしを包み込んでいた。


「ねえ」

「うん」

「きれいだね」

「うん、きれいだ」

 ずっといっしょに見ていたい。この美しい夕暮れの瞬間を。


 列車が駅に停まり、赤ちゃんをだっこして幼子の手をひいて、さらにベビーカーを片手で押して、列車に乗り込もうとする母親が見えた。

 彼はさっと立ち上がり、「手伝いますよ」と言いながら、ベビーカーを乗せるのを手伝った。母親の顔が明るくなるのが分かった。頭を何度も下げ、母親は席に座った。


「ありがと」

「え?」

「なんか、嬉しかったから」

 彼はそれには応えずに少し笑って、わたしの手を握った。……安心する。


 子連れの母親は、幼子を椅子に座らせ、赤ちゃんをベビーカーに寝かせた。赤ちゃんは一瞬泣きそうになったけれど、すぐにすやすやと眠り、安らかな寝息が母子を包んだ。母親は、幼子が取り出した絵本を開いて、静かな声で読み始めた。その物語は懐かしく優しく、また母親の声のトーンもとてもあたたかで、なんだか自分が小さな小さな子になって、お母さんに絵本を読んでもらっているような気持ちになった。


 薄紫色だった空は色が濃くなってきた。

 ああ、あの幻想的な夕焼けはほんとうに一瞬の絵画だったのだ。


「眠くなってきた」

「うん、わたしも」

 頭を寄せ合い、目を閉じる。


 読み聞かせの声が聞こえる。電車の揺れる音が聞こえる。誰かが鞄から何かを出した音が聞こえる。微かに、誰かのイヤフォンから漏れる音楽の音が聞こえる。

 彼の体温を感じる。血液の流れが聞こえるような気がする。心臓の音も。

 彼が手を強く握ってきたので、わたしも強く握り返す。手のあたたかさ。その強さ。


「今日、楽しかったね」

「うん。明日も楽しいよ、きっと」

「うん」

 今日も明日も明後日も、ずっといっしょにいる。


 ガタゴトと列車がわたしたちを運んで行く。帰るべき場所へ。

 みんな、夕方になったら家に帰るのだ。そして、ごはんを食べてお風呂に入って、くつろいで眠る。その当たり前のことが、なんていう愛しさなんだろう。



 薄紫色の空は濃い紫となり、夜の藍色へと変化を遂げようとしていた。車内には落ちかけた陽の光が射して、わたしたちを家へと導いていた。





  「夕焼け」 了


  *ショートショートの連作で、10万字超の長編にいたします。

   1話ごとに読み切りの形式で、次話に続きます。

   毎日2回(7時、18時)更新。よろしくお願いいたします!

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