第23話 まろうどさまと鏡池

 まろうどさまがいらっしゃる。

 そんな噂が館に広がり、ざわざわと落ち着かない雰囲気が館中に広まった。

 八重はまだ若い女官で、今年館に仕えたばかりだった。


「まろうどさま、とは、どのようなお方なのでしょう?」

「世界を越えていらっしゃるのよ。特別なお力を持っていらっしゃるの」

「どのようなお姿なのでしょう?」

「それはまろうどさまによって異なるらしいのよ。男性だったり女性だったり。年齢も、子どもから老人まで、さまざまだと言うわ」

 年嵩の女官すゑはゆったりと言い、「まろうどさまはまれびとだから、わたしでも一度しかお見かけしたこと、ないのよ」と付け加えた。


 稀人まれびとのまろうどさま。まろうどさまがいらっしゃると、世界に祝福がもたらされると言い伝えられていた。八重はすゑに、見かけたことがあるというまろうどさまがどのような方だったか訊こうと思った。そして、どのような祝福がもたらされたのかも。しかし、すゑは既に仕事に戻り、立ち去っていた。


 八重も仕事をしなくては、と思う。何しろ、まろうどさまがいらっしゃるのだから、館を隅々まで美しくしなくてはならない。八重は雑巾を水で濡らし、床を拭き始めた。


「八重」

 名を呼ばれて振り返ると、領主の氷彌ひみがいた。氷彌はまだ二十代前半と年若く、かつとても美しい女性だった。藍色の髪を生成り色の袿に長く垂らして、袿の青系の刺繍とともに氷重ねの衣装によく映えて、氷彌の美しさを際立たせていた。瞳は薄い水色で氷のように煌めいていた。


「領主さま」

 八重は掃除の手を止め、首を垂れた。

「よい、顔を上げよ」

「はい」

「八重はまろうどさまを知らぬであろう」

「はい」

「実は、私もよく知らないのだよ」

「え?」

 八重が驚くと、氷彌はにっこりと笑って、「話だけはもちろん聞いておる。しかし、話だけではの」と言った。


「まろうどさまは祝福をもたらす、と教えられました。……どのような祝福なのでしょう?」

 八重が問うと、氷彌は複雑な表情をして言った。

「そのとき、世界が欲しているものをもたらすのだそうだよ。……八重、こっちにおいで」

 氷彌に導かれ、八重は奥まったところに行く。ここはふつうの女官では入れないところだった。

「ほら、そこを見てごらん」

 氷彌が差す方を見ると、そこにはまるで手鏡のような池があった。


「美しいですね」

「だろう? 今度の満月の夜、あの鏡池に満月がまるく映し出されたとき、あそこからまろうどさまがいらっしゃるのだそうだよ」

 八重は顔を輝かせて鏡池を見た。

「楽しみですね!」

「……ほんとうに祝福をもたらす方であるとよいのだが」

 氷彌は八重には聞こえない大きさで小さく呟いた。

「領主さま?」

「――なんでもない。次の満月まで、もうそんなに時間はない。皆といっしょに準備をよろしく頼む」

「はい!」

 八重は氷彌に一礼をすると、足早に仕事に戻って行った。

 氷彌は八重を見送ると、朱色の柱に手をやり、そして思慮深い眼差しを鏡池に向けた。

「まろうど、さま、か。果たしてどのような方なのか」


 鏡池は昼間の太陽の光を受け、氷彌の物思いなど知らぬようにきらきらと輝いていた。





  「まろうどさまと鏡池」 了


  *ショートショートの連作で、10万字超の長編にいたします。

   1話ごとに読み切りの形式で、次話に続きます。

   毎日2回(7時、18時)更新。よろしくお願いいたします!

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