第64話 手袋
朝陽が家々をオレンジ色に染め、世界をくっきりとさせていく。
ぼくはこの時間が好きだ。
冬の空気は澄んでいて、寒いけれど気持ちがいい。
一つ向こうの駅まで歩いてゆく。靴音が響く。
バス通りをまっすぐ駅までゆく。
歩きながら、今日一日のスケジュールを頭の中で思い描く。こういう時間がとてもいいんだ。頭がすっきりと働く。
ふと前を見ると、いつもこの時間、いっしょに歩いている女性がいた。黒いヒールをカツカツと小気味いい音をさせて歩いている。
その女性がマフラーを巻き直したとき、何か黒いものが落ちた。
見ると、手袋だった。
スエード素材でシンプルな、しかし上品な手袋だった。
女性に追いついて、「すみません」と声をかける。
女性は怪訝そうな顔で振り向いた。
「あの、落ちましたよ」
手袋を差し出すと、女性は顔を輝かせて「ありがとうございます! 大事な手袋なんです!」と言った。ぼくから右手の手袋を受け取り、コートのポケットから左手の手袋を出し、手にはめた。
「これで落としません」
とにっこりした。
「よかったです」
「本当にありがとうございます。……駅まで行くんですか?」
「そうです」
「わたしもです。……毎朝、同じくらいの時間に会いますよね?」
女性は少し控えめに言った。
「そうです、毎朝、会いますね」
ぼくは笑顔で応え、どちらともなく並んで駅に向かって歩き出した。
「今日も寒いですね」
「寒いですね」
ぼくたちはたわいもないことを話しながら、駅に向かった。誰かと駅まで行くことなんてなかったから、新鮮な気持ちだった。ひとりで歩くのもいいけれど、こうして誰かと時間を共有するのもいいものだな。
駅の改札口までいっしょに行き、乗る電車のところで別れた。彼女とは方面が異なったのだ。小さく頭を下げて、挨拶をする。
いつもの電車が来て、いつもの場所から乗り込む。
いつもと同じ朝。だけど、今日はほんの少し違って、その違いはとても気持ちをあたたかくさせるものだった。
ぼくは一日の始まりの時間が好きだ。
「手袋」 了
*ショートショートの連作で、10万字超の長編にいたします。
1話ごとに読み切りの形式で、次話に続きます。
毎日2回(7時、18時)更新。よろしくお願いいたします!
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