第110話 風に呼ばれて

 朧月が、藍色の空に白銀の光を放ちながら、ぽっかりと浮かんでいた。


 あたしは月明かりの夜道を彼と歩く。

 風が強くて、髪とスカートを抑えながら歩いた。風はでも、初夏のにおいがした。風が吹くたびに、ざあっという音が、恐ろしく響く。木々の葉が夜空に騒めき、そして木々はそこここに暗がりをつくっていた。


 暗がりには、不思議がある。

 街の中ではもうこういう暗がりは存在しなくなっていた。

 不思議が潜む、ほんとうのくろい影。


「ねえ」

 あたしは彼の腕を掴もうとして、ふと気が付いた。

 このひとはだれ?

 彼氏だ、つきあっているひとだ、とさっきまでは確かにそう思っていた。それは確定的な事実だと思っていた。でも。

 このひとはだれ?


「なに? なつみ」

 彼はわらう。

 ひと際つよい風が吹く。このひとはだれ? 名前は何? 木々を渡る風の音がおおきく響く。ざあああ、ざあああああ。

 暗がりに、ぼわっと白いものが浮かんでいた。


「なつみ、行こう」

 彼はその白いものの方へいざなう。待って。あたし、行きたくない。

 でも、彼はあたしの手を強く握って、ぐいぐいとそこへ連れて行く。スカートが風に吹かれて、大きくはためいた。髪も風に攫われて、あたしの視界を隠して、激しくなびいた。

 風が強すぎて、彼が何か言っているけれど、何も聞こえない。

 ざああああああ、ざあああああああああ。


 待って。待って待って待って。手を放して。

 しかし、つよい力で手を握られたまま、あたしは暗がりへと連れて行かれる。

 ざあああ。ざあああああ、ざああああああああああ。


 もはや、風の音は悲鳴や呻き声にしか聞こえなかった。もしくは、恐ろしい呼び声。

 朧月は雲に隠れてしまった。

 辺りは闇。真の闇。あたしはどうしてこんなところへ来てしまったのだろう?

「なつみ、行こう。いっしょに」

 いきたくない。


 白いものはあかちゃんだった。あたしは思わず、自分のお腹に手をやった。どうして。どうして。ちゃんと、始末したはずだったのに。


「おかあさん。ぼく、ひとりじゃさみしいよ。いっしょにいこう?」

 ぐいぐいと引っ張られる。やめて。いくなら、ひとりでいって。

 ざあああ、ざああああああああ。ざああああああああ……


 雲間から、朧月が半分顔を出した。

 そして、そこここに、くろい闇がひろがっていた――





  「風に呼ばれて」 了


  *ショートショートの連作で、10万字超の長編にいたします。

   1話ごとに読み切りの形式で、次話に続きます。

   毎日2回(7時、18時)更新。よろしくお願いいたします!

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