第28話 茶筒
ずっと海の中を歩いている気分でした。
重い重い水の圧力をかき分けるようにゆき、それでも前に進もうと頑張ってきました。
とても苦しい思いでいました。とても長い間。永遠とも思える長さでした。
息をすることさえ、苦しく感じていました。
どうしてこんなにも暗くてつめたくて、重い中を歩いてゆかねばならないのでしょうか。
それでも、もしかして、ひと筋の、ほんとうにひと筋の光が見えるのかもしれないと、ほんの少しの希望を胸に、絡みつく海草に足をとられながらも、振り切るように、私は進んで行ったのです。
吐いた息の水泡は、上へ上へと立ち昇り、黒い海水に吸い込まれるように消えてゆくのです。
ここは音のない世界。
ことばもない世界。
何かが蠢く気配と足に絡みつく海草。光がないから色もなく、吸い込まれるような暗黒だけが広がっているのです。
不安が、私の躰からじわりと染み出して海水に溶けゆき深海の闇と絡み合い、私に纏わりつきます。
光はありません。ひと筋の光でよかったのに。
嗚呼。私はどんなにかそれを求めたことでしょう。
もしも、光が、ひと筋の光が私に射したのなら、私はその光を全身で抱きしめ、きっと喜びの涙を流すのです。
さようなら。
私の足は海草に絡みとられ、もう動かすことは出来ないのです。歩く力はもう残っていません。息をすることすら、出来ないのです。
さようなら。さようなら。さようなら。
ほんものの、虚無の世界に、私はゆこうと思います。
*
わたしは、それをじっくりと読むと、丁寧に畳んで、茶筒に戻した。
それを見つけたのは、わたしがまだ高校生の頃だった。台所の棚の奥に、何の変哲もない茶筒があり、何のお茶だろうかと蓋を開けたら、お茶ではなく紙が入っていて、中には詩とも小説とも、手紙とも――遺書ともとれる文章が綴られていたのだった。
胸の奥底にずんと入り込む文を読み、わたしは紙を入れた茶筒を自分の部屋に持ち込み、ずっと大切にしてきた。引越しをしても常に持ち歩き、そして、何かあるたびに読み返してきた。
「まま」
「りお」
小さい手がわたしを求めて、わたしはりおを抱きしめる。愛しい重さ。
母も、この重さを知っていた。愛しさも。それは確かな確信だった。
文字を見た瞬間、書いたのは母だとすぐに分かった。
茶筒を見つけたとき、母は生きていた。遺書のような文を書きながらも、そして、いつ書いたのか分からないそれを捨てられずにいながらも、母は、しかも、元気に生きていた。闊達で明るい存在だった、ずっと。
「ままのままにあいにいく?」
「うん、もうそろそろ行こうか」
何かに悩んだとき、いつも茶筒を開けた。遺書ともとれるような文を読むと、不思議に気持ちがすっとした。母もこういう思いを抱えながらも、でも前を向いて歩いてきたんだ、と思うと、わたしも頑張れそうな気持ちがしたのだ。
わたしは小さな手をぎゅっと握り、実家へと向かった。
「茶筒」 了
*ショートショートの連作で、10万字超の長編にいたします。
1話ごとに読み切りの形式で、次話に続きます。
毎日2回(7時、18時)更新。よろしくお願いいたします!
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