第97話 針の穴から見た世界
「針の穴から見た世界がほんとうなのよ」
かつて、母はそう教えてくれた。
小学生だったわたしは、縫い物をする母の横で本を読んでいた。そのときふいに母がそう言って、わたしに笑いかけた。
「ほんとう?」
「うん、そう。だからね、芽衣、針に糸を通してくれる?」
「えー」
「芽衣の方が目がいいし、ほら、ほんとうの世界が見れるわよ?」
母はくすくすと笑って、わたしに針と糸を渡した。
わたしは小さな針の穴を、じっと見た。
針の穴にほんとうの世界は見えなかったが、糸は一回ですっと入った。
「お母さん、出来たよ」
「ありがとう。芽衣は糸通しが上手だね」
母はわたしの頭を撫でて、それから「ほんとうの世界は見えた?」と言った。
「見えた」とわたしは答えた。なんとなく、「見えた」と言いたくなったのだ。
母が嬉しそうに「どうだった?」と聞いたので、「光が見えた!」と答えた。そうだといいなと思ったから。
母は「そうだと思った。お母さんも光が見えたのよ」と言って、針を針山に刺すと、わたしをぎゅっと抱き締めた。わたしはお母さんのあまい香りに包まれて、幸福な気持ちになった。針の穴から見えたのは、きっとこの世界だと思った。
お母さん、大好き!
*
「お母さんって、器用よね」
「そんなことないよ」
「だって、わたしにスカートやバッグ作ってくれたじゃない」
「ああ、そうだね。懐かしいね」
「わたし、お母さんみたいに出来るかなあ」
「お母さんみたじゃなくていいんだよ。芽衣は芽衣でいれば」
「そう?」
「うん、そう」
わたしは大きくなったお腹をそっと撫でた。「もうすぐね」と母が笑う。
「うん」とわたしも笑う。
わたしは、お裁縫が苦手だ。編み物もそんなに得意ではない。きっと、母のようにスカートやバッグを作ってあげたりは出来ないだろう。マフラーすら編んであげられないかもしれない。
だけど。
針の穴から見る光は見せてあげられるかもしれない。
幸福な、光。
抱きしめてあげよう。泣いていても笑っていても、いつでも。わたしの香りはあまいだろうか。
午後の太陽がやわらかく室内を満たしていた。冬の午後の光は金色に輝いて、あたたかい陽だまりを作った。母とわたしはその中にいて、そしてもうすぐ生まれてくる娘もわたしのお腹の中にいて、どこまでもどこまでも伸びていきそうな金色の光の中で、新しい気持ちでいっぱいになっていた。
さっきまで飲んでいたほうじ茶が、湯呑の中に少し残っていて、微かに揺れたような気がした。
「針の穴から見た世界」 了
*ショートショートの連作で、10万字超の長編にいたします。
1話ごとに読み切りの形式で、次話に続きます。
毎日2回(7時、18時)更新。よろしくお願いいたします!
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