第138話 薄明

 暗くなりゆく空。雲の間から覗く、橙色。空の青さと混じって、わたしの目には切なく映った。太陽が地平線に沈んでからも、まだ薄く明るい。夜になるまでの、この三十分ほどの時間が好きだ。


 わたしは、カーテンを閉めようかどうしようか迷いながら、カーテンを閉めないままで、ずっと空を見ていた。薄く明るく薄く暗い。子どもたちが家々へ帰る声が聞こえてくる。夏の気配よりも秋が強く感じられ、気づけば、緑の実がついて赤く色づく準備をしている。


 夕闇が落ちてきて、影が庭に落ちる。緑の葉が次第に暗さに沈んでゆく。

 庭の紫陽花が枯れたまま、茶色い頭をもたげているのが気にかかった。

 切ってしまおうか。

 窓に寄り、紫陽花を見つめる。

 どこからか鴉の声が響いた。夕暮れに鴉の鳴き声はよく似合う。あの黒い羽根が、きっと、青を藍色にして群青色にして、それから夜の闇に変えるんだ。橙色は群青色に呑み込まれてゆく。


 足音が聞こえた気がした。

 玄関のドアが開いた音がしたように思った。

 わたしは玄関に向かう。

 既に暗い玄関はしんとしていて、人の気配はなかった。さみしい気持ちになって、わたしは玄関の灯をともした。なんとなく諦められない気持ちが込み上げてきて、わたしは玄関のドアを開けた。


 むろん、誰もいない。

 遠くから「ただいま」という声が聞えて、物悲しさが込み上げてきたので、すぐにドアを閉めた。


「ただいま」「おかえりなさい」

 なんという優しい言葉なんだろう、と思う。


 わたしはリビングに戻り、カーテンを閉めた。もう夕闇が垂れ込めていて、薄明の時間は終わっていた。


 リビングに幻の足音が響いて、幻の笑い声が満ちた。

 あのときは本当に大変だと思っていた。でも、今思えば、なんという幸福な時間だったのだろう? 毎日が忙しくて、そしてあっという間に過ぎて行った。


「ただいま」「おかえりなさい」「夜ごはん何?」「カレーだよ」「やったあ!」「オレ、カレーは好きじゃない」「俺は好きだよ」「ねえ、サラダある?」「あるよ」「あたし、サラダ好き! ミニトマトいっぱい入れたい」「いいよ。手を洗ってきて、お手伝いして?」「はーい」「あ、ずるい、お兄ちゃん、ゲームしてるよ」「隼人、机拭いて」「えー、賢人にやらせろよ」「お兄ちゃん、ゲームやめてよ!」「ケンカしないの、早く手伝って!」「あ、お父さん、帰って来た!」

 幸福過ぎて、涙が出た。家族全員そろった夜ごはん。


 ――玄関のチャイムが鳴った。

「ただいま」「おかえりなさい」

 今は二人で食べる。それでも、きっと幸せなのだ。

 もっと時間が経って、もし一人残っていたら、今日のことを幻のように思い出すのだろうか。





  「薄明」 了


  *ショートショートの連作で、10万字超の長編にいたします。

   1話ごとに読み切りの形式で、次話に続きます。

   毎日2回(7時、18時)更新。よろしくお願いいたします!

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